23 導き
アキとおじいさんが帰ってしまうと家の中は静まり返る。
聞こえてくるのは僕とトリーの息づかい、そして暖炉で爆ぜる薪の音。
くあ……
大口を開けてあくびをすると、トリーは座布団に転がったまま、僕を見上げて瞬きした。つぶらな瞳は半分閉じられ身体からは力が抜けて、肉球もぽかぽか温まって寝入ってしまう寸前だ。眠って良いよと顎の下をくすぐったけど、トリーは必死になって目を開けている。
いっしょに寝るの。
そう言いたげに、前足は僕の指をきゅっと握って離さない。
「大丈夫だよ。僕はどこにも行かないからね」
きゅー……
あやしながら、空いた片手で首筋をなでていると、やがて身体からは力が抜けて前足がぱたりと落ちた。
トリーのまぶたはしっかり閉じられ、指の先に規則正しい寝息が触れる。口の先から白い牙がほんの少しはみ出して、赤い舌がのぞいている。目を離さず見つめていると、ときおり耳の先がふるりと動き、うにゃうにゃ寝言まで聞こえてきた。
可愛くてたまらない。
夜通し見ていたいけど、明日は夜明け前に起きなきゃならない。だから僕はトリーを起こさないよう荒れたウロコに薬を塗って、布団に運んでトリーと一緒に目を閉じた。
「ミカはさ、考えすぎなんだよ」
テーブルの上で頬杖をつきながら、アキが口をとがらせた。
「ちゃんと帰って来たのにトリーがまた出て行くって……なんでそうなるわけ?」
「だって仲間がいたんだよ? いっしょにいたいって、そう思うのが普通じゃないか」
「したが……はたしてトリーはそう思っておるだろうか?」
「…………」
アキとおじいさんがちらりと目を向けるのに、僕はなにも言えなくなった。
食事を終えて茶の用意を始めた途端、トリーはさっさと暖炉正面に陣取って、両手両足翼を広げて寝そべりだした。よほど気持ちいいのだろう、目も口も半開き、おまけにちょっぴり舌まで出して、夢見心地で溶けている。
「トリーはさ、仲間よりも暖炉のほうが好きだって」
「どうやら、そのようだの」
……くーう
鼻を鳴らし、トリーは億劫そうにころりと転がり仰向いた。今度は腹を炙るらしい。
確かにアキの言うとおり、この時期トリーはなにより暖炉を優先する。でも、暖炉が仲間より大事だなんて、そんなことがあるだろうか。今はこうでも暖かくなったらやっぱり仲間が恋しくなって、出て行ってしまうんじゃ──そんなことを考えだしたらアキがふうっと息を吐き、湯飲みを取ると熱い香茶をひとくち飲んで口を開いた。
「だいたいトリーはさ、卵のときからミカと一緒だったんだ。いまさらドラゴンと一緒に暮らせったって、無理なんじゃないの?」
「そんなことない! こないだ会った子たちとは仲良くやってたよ」
「ほ。それならトリーは、やはり自分の意志で帰ってきたのではないか?」
「……それは」
でもそれなら、さっきトリーはなにを伝えたかったのだろう。
僕を川に連れて行って、なにをしようとしたんだろう。
「そんなに心配ならさ、確かめてみようぜ」
「おお。それが良い。ミカ、どうかの?」
「それは、もちろん……」
トリーが僕を誘ったのは、最後のお別れをするためだ。そう思っていたけれど、アキもおじいさんも有り得ないと否定する。
僕は、トリーに誰より幸せになって欲しい。
だからトリーの望みを叶えてやりたい。たとえどんなに辛くても、行くというなら笑顔で送り出そうって決めたのに、またわからなくなってきた。
いったい、なにが正解なんだ。
頭の脇から温もりが遠のいて、冷気がすうっと頬に触れた。それで半分目が覚めたけど、名残惜しくて僕はそのまま目を閉じていた。すると胸の上に片足が乗り、くっと体重がかけられる。それから湿った息が鼻の先に触れたところで、たまらず僕は声をあげた。
「……おはよう」
瞬間びくっと身を引きいて、けれどすぐにトリーは僕の顔をなめだした。
「ごまかさない。また僕の鼻、塞ごうとしたでしょ」
きゅるる、きゅるきゅる
きゃー
「暗くても、目を瞑ってても、わかるものはわかるの!」
トリーを捕まえ乱暴になでくり回すと、トリーも僕の腕にしがみついてぎゃうぎゃうと甘噛みする。そうしてひとしきり布団の中でじゃれあってから、僕は身体を起こして明かりをつけた。
日が昇ってアキとおじいさんが来るまでに、出歩く準備をしなきゃならない。トリーがなにをしたいのか、僕になにを見せたいのか、今日は皆で確かめるんだ。
「──そんであの肉、全部焼いたわけか」
「うん。トリーの仲間に会ったとき、足りなかったら困るだろ?」
「朝からずいぶん……頑張ったの」
「や。いくらなんでも多すぎだろ……」
日が昇ってまもなく、白い息を吐きながらやってきたアキとおじいさんに肉の入った籠を見せると、2人は顔を見合わせひきつった笑顔を見せた。でも、僕にすればこれだって足りないぐらいだ。もしトリーが仲間と一緒に暮らすなら、今日が最後になるかもしれない。だから、出来るだけのことをしてやりたかった。
きゃう!
「ふふ。みんなで食べるから大丈夫だってさ」
「いーや、トリーは全部自分で食べるって言ってるね」
「ほ。さもありなん」
「そんなに食べたら、お腹が痛くなっちゃうよ」
きゃう、きゃう
皆といるのが嬉しいのか、それとも肉が待ちきれないのか、トリーは僕の膝に前足をかけ、黒い瞳をきらきらさせて早く早くと急かしてくる。
かわいいこの姿も見納めになるのだろうか。つきんと胸が痛んだけれど、僕は無視して大きな荷物を背負い直し、アキとおじいさんを促した。
「じゃあ、行こうか。トリー、案内してくれる?」
きゃう!
元気よく返事をすると、トリーは青い矢となり全速力で山に向かって駆け出して、あっという間に見えなくなった。
「なんと。置いてかれてしもうたの」
「……なあ、ミカ……」
「き、きっと、すぐ……すぐ戻ってくるよ!」
そう言ってみたたものの、トリーがなにをしたいのか、僕にもさっぱりわからなかった。
◇ ◇
弱々しい陽射しでようやくできたぬくもりが、気まぐれな風のひと吹きで散らされる。灰色の山の樹々は耐えるように、ただじっと佇んでいるけれど、その足元だけは赤や黄をかすかに残した落ち葉のおかげでふかふか暖かそうに覆われている。僕らはそこに引かれた茶色の筋──細い、いまにも消えそうな獣道を辿っていた。
「ミカ、身体は辛くないか?」
「はい、平気です。夕べばあちゃんの薬を飲んだから、すっかり元気になりました」
「無理すんなよ。ったく、トリーもさ、少しゆっくりしてからにすりゃあいいのに」
「ふふ。きっと早く行きたくて仕方ないんだよ」
出発前、トリーが山に向かって駆け出したのは、嬉しすぎて我慢できなかったかららしい。だってすぐに、喜びの歌が山全体に響いてきたから。聞いてるだけでわくわくしてくる、楽しくてたまらないトリーの歌。そして歌い終えるとトリーは息を切らして僕らのもとへ戻ってきて、「早く行こう」と促した。
「おまえなあ、俺たちは飛べないんだぞ?」
きゃーう!
きゅるきゅるきゅるっ
こっちこっち。早くおいでよ。
足取り軽く、トリーは跳ねるように進んでゆく。そして川に着くと上流に向かって歩き出し、少し先のごつごつした岩の上で翼を広げてすいっと川を飛び越えた。川幅も狭く、所々に足場になりそうな岩があって、確かに川を渡るならここしかないって場所だった。でも翼のない僕らにとってはひと苦労で、やっとの思いで渡りきるとトリーは「こんどはこっち」と山の中に入っていった。見せたいものは川ではなく、その向こうにあるらしい。
「ふう。この辺りに来たことは?」
「俺は川を超えたの初めてです。ミカは?」
「僕もそう。東の山にはなにもないって聞いてたし」
トリーにしても、狩場はこの辺りにはないはずだから詳しいとは思えない。なのに不思議なほど、トリーの足取りには迷いがなかった。途中なんども振り返り、僕らがついてくるのを確認しながら、どこかを目指しているようだ。
「……どこに行くのかな」
「……やっぱり仲間のところ、なのかな」
「だが、トリーは北に飛んで行ったのだろう? こちらは別のものやもしれんの」
「俺もそこが引っかかってるんですよね」
「でもさ、他には思いつかないよ」
「だよなあ……おーい、トリー。そろそろどこに行くのか教えてくれよ」
きゃう、きゅーきゃ
きゅるるるっ、るりっ
「──だって。アキ、わかった?」
「わかるか!」
「せっかくトリーが説明してくれたのに」
「ほ。こればかりはのお」
きゃるるるるーう
皆で笑いながら歩く斜面はなだらかで、まるで散歩と変わりなかった。でも少しずつ山を登っていたようで、振り返れば休憩した大岩が、ずいぶん下の方に見えていた。
「やれやれ。平坦な一本道かと思っていたが、いつのまに」
「驚きだよな。あ、また沢がある。そこ、足元気をつけてください」
「おお、ありがとう。それにしても、ここは水が豊富だの」
「土もいいし、水もある……あーあ、平らだったらなあ。いい畑になりそうなのに」
「はは。ミカはホント、熱心だなあ」
きゃう、きゃう!
「なんだよ。誰もトリーのことは褒めてないぞ」
きゃるりっ、るりっ
ガットー、ガットー、ガットーダ!
きゃう
「んん? ひょっとしておまえ、ミカを自慢してるのか?」
生意気だ、とアキがピンと立ったトリーの尻尾を手で払う。するとトリーは尻尾の先でアキの腿をぴしりと打って逃げだした。じゃれ合う二人の息はぴったりで、まるで本当の兄弟みたいに仲が良い。
その様子を眺めていたら、急に胸が苦しくなって目元がじわりと熱くなった。
トリーの望みを叶えようって決めたのに。なのにいま、行っちゃ嫌だ、ずっとずっと一緒にいようって叫びたくてたまらない。
──おまえはトリーを捨てたくせに。
頭の中で声が響いて背筋がすうっと冷たくなった。
そうだ、こんな身勝手とても許されることじゃない。今の僕にできること。そんなのもう決まってる。だから僕は唇を強く噛み、下腹に力を入れて暴れる心を精一杯抑え込んだ。
やがてなだらかだった山肌に、縞模様のある赤茶の岩が多く見られるようになってきた。どこか見覚えのある岩で、それがトリーの仲間と出会った場所だと思い出したら、どきりと胸が大きく鳴った。
「この岩! やっぱりそうだ。トリーは仲間のところに向かってるんだ!」
「待て待て。似てる岩があるってだけじゃあ決められないって」
「さてさて、それもじきにわかるだろうて。したが、日は待ってくれんからの。そろそろ野営の準備をしなければ」
その言葉に見上げれば、雲がほんのり赤くなり、足元では影が長く伸びていた。空気も急に冷えてきて、そよいだ風に身体がぶるりと震えてしまう。寒さというより、否応なしに時間だけが過ぎてしまう、その事実が怖かった。
「よーし、この辺で寝床を探すか!」
「ミカ、良いかな?」
「あ、はい。でも肉は……トリーがだいぶ食べちゃったから……」
「ほ。問題なかろう。私らには干し芋がある」
きゃるっ、きゅるるるーう
きゃー
「うん? ほら、もうすぐ暗くなるでしょう。だから晩ご飯の支度をするんだよ」
きゃう!
ゴハン! ゴハン!
「ふふ、休む場所を決めたらね」
トリーは黒い瞳をきらきらさせて、さえずりながら僕らの周りを飛び跳ねだした。楽しそうなトリーのおかげで沈んだ気持ちも軽くなる。そうだ、今は皆と一緒に楽しもう。トリーのことは3人だけの秘密だから、僕らが忘れてしまったら、トリーの存在も消えてしまう。だから僕は決して忘れないよう、トリーの声も姿もしっかり心に刻み込むんだ。
◇ ◇
暗い空にはいびつに太った月が登り、葉を落とした枝の向こうでたったひとり、静かに山々を照らしている。僕らは大きなクヌギのそばで、焚き火を囲んで食後のお茶を飲んでいた。山で採ったマナスとロモで淹れた茶は、酸っぱいけれど疲れた身体に心地よい。
「ふう……トリーがいれば、どこでだって生きてけるなー」
「ほんにのお。ありがとう、トリー」
きゅーう
アリガトー、ゴザマータ!
「そこは『どういたしまして』だよ」
くるるるーう
ゴザマータ!
マシマシタ!
きゃう
自慢げなトリーの様子に頬が緩んでしかたがない。トリーも皆に褒められ撫でられて、満足そうに目を細めている。
あれからトリーは大活躍で、僕らをこの岩場まで案内したあとキジまで狩ってきてくれた。おかげで僕らは野宿とは思えないほど豪華な夕食にありつけて、のんびり茶を啜っている。
「この岩場もなあ、トリー、知ってたのか?」
そこは洞窟と呼ぶには浅いけど、入り口が茂みで覆われうまく風を遮って、中は薄く落ち葉が積もり、地面も乾いて野宿にもってこいの場所だった。もしトリーがいなかったら、とても見つけられなかったろう。
それにしても、トリーだってこの辺りは詳しくないはずなのに、なぜって思ったところで僕ははっと気がついた。
「ねえ、トリー……家出中、このへん探検してたの?」
トリーに視線が集中した。トリーはきょとんと瞬いて、それから上目遣いでじりじりと後ずさり、最後にぱっと身を翻しておじいさんの背中に逃げ込んだ。そこにいれば叱られないって知ってるところが憎らしい。
「そうさの。きっとトリーはミカに苦労をかけたくなかったのだろ」
「それは、ありがたいけど。でも僕は──」
『トリーがいないとダメなんだ。だからトリー、僕のそばにずっといて!』
きゃう
「ちょっとアキ。なに言ってるの」
「ミカの気持ち。なー、合ってるよなー」
「なんでトリーに聞くのさ!」
アキとふざけて小突き合うと、トリーが「ケンカしないで」と僕に擦り寄りきゅうきゅう鳴いた。不安そうで、でも必死な姿が可愛くて、我慢できずにトリーを抱き上げ頬ずりすると、トリーは目を白黒させて腑に落ちないって顔をした。だから僕はアキと大げさに抱き合って、仲良しだよって見せてやる。するとトリーは途端に「ボクも」と抱っこをねだって騒ぎ出すから、僕らはまた可笑しくなった。
そんなふうに他愛ないことを喋っていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。やがて月が西に傾き、トリーが大きなあくびをすると、僕らもつられて眠くなった。そこで寝支度を整えて、三人身を寄せ合って横になる。トリーはしばらく僕らの周りですんすん匂いを嗅ぎまわっていたけれど、僕とおじいさんの頭の間で腰を下ろして丸まった。
眠かったはずなのに、横になるとなぜか目が開いてしまう。暗い洞窟の天井と、複雑に絡まった木々の影、その向こうの月明かり。それらをぼんやり眺めていたら、おじいさんが隣でぽつりと呟いた。
「ここはほんに、豊かな山だ」
「……はい」
「土も良いし水も豊富、そして山には獣がたんとおる」
「はい……」
「トリーはさ、前に……イノシシ狩ったよな」
「一度だけ、ね……」
くー……るるるー……
いっしょに喋っているつもりなのか、寝ぼけながらもトリーが律儀に返事をした。おじいさんはそれに気配だけで微笑んで、そして静かに言葉を継いだ。
「キジ、ウサギ、イノシシ、シカ…… しかし、クマやオオカミの話は聞かんの」
「そうですね……」
「怖い獣がいないから……アキのうちは、番ガチョウなんだよね」
「……言っとくけどなあ。あいつ、すっげえ凶暴だから。イタチぐらいなら追っ払っちまうし……」
「ほ。しかしのお、イタチではシカは狩れん。そしての、クマやオオカミがいない山は荒れるのさ」
「……荒れる?」
「天敵がいないとシカは増える。そして……山の全てを喰らい尽くしてしまうのよ」
アキがはっと息を飲む。僕も口を中途半端に開けたまま、言葉がなにも出なかった。
ここではクマの足跡も、爪のあとさえ見つからない。オオカミだって遠吠えすら聞こえない。でも辺りの山はずっとずっと昔から、アキのばあちゃんが子供のころから変わらないって聞いている。それはつまり、ここにシカの天敵がいるということ。知らないだけで、クマやオオカミの代わりの生き物がいるってことだ。
(天敵って、ひょっとして──!)
ひとつの予感に身体が震えて眠気がどこかに吹っ飛んだ。アキも同じ気持ちのようで、荒い鼻息をたてている。誰も言葉にしなかったけど、答えはみんな知っていた。
その生き物は僕の顔のすぐ横で、丸くなって眠っているんだ。




