第四話 日曜日の食卓
日曜日になると、村の鐘がいつもより長く鳴った。
マッテオ・ベルナルディは、その音で目を覚ました。
窓の外には薄い霧が残っていた。畑の向こうにある教会の鐘楼は、白い靄の中から頭だけを出している。
家の中には、昨日までとは違う匂いが漂っていた。
小麦の匂いだった。
マッテオは寝台から起き上がり、台所へ向かった。
母のアンナが、木の台の上で生地をこねていた。
「パンを焼くの?」
「日曜日だからね」
「粉が残っていたのだね」
「少しだけ」
母は生地を折り畳み、掌の付け根で押した。
小さな生地だった。
三人で食べれば、一度の食事でなくなってしまうだろう。
「全部使うの?」
マッテオが尋ねると、母は首を横に振った。
「少し残してあるよ」
「何のために?」
「来週のためさ」
マッテオは黙った。
母は生地を丸め、布をかぶせた。
「今日は教会へ行くんだろう?」
「ああ」
「だったら、きれいな上着を着ておいで」
「いつものじゃ駄目なの?」
「日曜日だからね」
母は、もう一度そう言った。
マッテオには、日曜日というものが少し不思議だった。
畑の土は、日曜日だからといって乾くわけではない。
腹も減る。
薪も燃える。
それなのに、人々はいつもよりきれいな服を着て、教会へ集まる。
まるで一週間に一度だけ、自分たちが貧しいことを忘れようとしているようだった。
⸻
教会の前には、すでに大勢の村人が集まっていた。
男たちは帽子を手に持ち、女たちは肩掛けを整えながら挨拶を交わしている。
子供たちは石畳の上を走り回り、母親に叱られていた。
マッテオは父のピエトロと並んで歩いた。
父は昨日の仕事のことを、まだ何も話していなかった。
マッテオも尋ねなかった。
教会の入り口で、父が足を止めた。
一台の馬車が近づいてきたからだった。
黒く塗られた車体には、銀色の飾りがついていた。
馬車から降りてきたのは、地主のヴィットリオ・モレッティだった。
仕立てのよい外套を着た男で、父より少し年上に見えた。
その後ろから、妻と二人の子供が降りてきた。
村人たちは道を空けた。
「おはようございます、モレッティ様」
誰かが声をかけた。
地主は軽く頷いた。
それだけだった。
マッテオは父を見た。
ピエトロは帽子を胸の前に持ち、黙って立っていた。
「父さん」
「何だ」
「あの人が、父さんの仕事をなくしたの?」
父の顔が強張った。
「ここで話すことじゃない」
「でも――」
「黙れ」
父の声は低かった。
マッテオは唇を噛んだ。
地主の家族が教会へ入っていく。
その背中を見ながら、彼は考えた。
同じ村に住んでいる。
同じ鐘の音を聞いている。
同じ神に祈る。
それなのに、どうしてあれほど違うのだろう。
⸻
ミサが終わると、教会の前は再び人々の声で満たされた。
マッテオは父とは別れ、広場の井戸のそばへ向かった。
そこに、テレーザ・コンティがいた。
幼い頃から知っている娘だった。
濃い茶色の髪を後ろで束ね、灰色の肩掛けを羽織っている。
彼女は井戸の縁に腰掛け、小さな布包みを膝に置いていた。
「マッテオ」
先に声をかけたのはテレーザだった。
「久しぶりね」
「三日前にも会ったよ?」
「三日も会わなければ、久しぶりよ」
彼女は笑った。
マッテオも、つられて笑った。
テレーザは彼の手を見た。
「どうしたの、その傷」
「昨日、町で荷運びをしたんだ」
「仕事が見つかったの?」
「一日だけだけどね」
「そう」
彼女は、それ以上尋ねなかった。
代わりに、膝の上の布包みを開いた。
中には、小さなパンが二つ入っていた。
「一つ食べる?」
マッテオは首を横に振った。
「いいよ」
「遠慮しなくていいのに」
「母さんがパンを焼いている」
「そう」
テレーザはパンを一つ取り出し、半分に割った。
中は白く、柔らかそうだった。
マッテオは思わず目を向けた。
「どうしたの?」
「いや」
「食べたいんでしょう」
「違う」
「嘘が下手ね」
彼女は半分を差し出した。
マッテオは少しためらってから受け取った。
パンは、まだかすかに温かかった。
一口食べると、小麦の甘い香りが広がった。
「美味しい」
「でしょう?」
「どこで買ったの?」
「買ってないわ。今朝、焼いたの」
「テレーザが?」
「そうよ」
テレーザは少し得意そうに笑った。
「うちの母さんは、私のパンが一番美味しいって言うの」
「本当に?」
「さあ。母親だからね」
二人は笑った。
しばらくして、テレーザが言った。
「マッテオ、あなたはこの村を出たいと思ったことがある?」
マッテオはパンを持ったまま、彼女を見た。
「どうして?」
「聞いてみただけ」
「君は?」
テレーザはすぐには答えなかった。
井戸の向こうには、教会の鐘楼が見えた。
「私は、出てみたい」
「どこへ?」
「どこでもいいわ」
「どこでも?」
「この村じゃないところ」
マッテオは眉をひそめた。
「ここが嫌いなの?」
「嫌いじゃない」
テレーザは静かに答えた。
「でも、好きだからって、一生ここにいなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
マッテオは何も言えなかった。
彼女は残ったパンを布に包んだ。
「ヴェネツィアへ行ってみたいの」
「ヴェネツィア?」
「ええ。海が見たい」
「海なんて、何が面白いの??」
「分からないわ」
テレーザは笑った。
「だから見てみたいのよ」
その言葉は、なぜかマッテオの胸に残った。
分からないから、見てみたい。
数日前、行商人のジュゼッペが見せてくれたビゴリを思い出した。
知らない土地の食べ物。
知らない人々の暮らし。
知らない世界。
彼もまた、同じことを考え始めていたのかもしれなかった。
⸻
昼過ぎ、マッテオは家へ戻った。
母は焼き上がったパンを布の上に置いていた。
小さな丸いパンだった。
表面には細い割れ目が入り、薄い焼き色がついている。
「いい匂いだ」
マッテオが言うと、母は笑った。
「日曜日だからね」
父はすでに食卓についていた。
アンナはパンを三つに分けた。
それから、薄い野菜のスープを器によそった。
玉ねぎと、少しの豆が入っていた。
マッテオはパンをスープに浸した。
固い表面が柔らかくなり、温かい汁を吸い込んでいく。
一口食べる。
美味しかった。
けれど、教会の前で食べたテレーザのパンとは違った。
材料の違いだろうか。
焼き方の違いだろうか。
それとも、食べた場所の違いだろうか。
マッテオは、そんなことを考えながら食べていた。
「何を考えている」
父が尋ねた。
「別に」
「食事中にぼんやりするな」
マッテオはパンを口に運んだ。
しばらくして、父が言った。
「モレッティの家では、今日もご馳走だろうな」
母は何も言わなかった。
「ご馳走?」
マッテオが聞き返した。
「日曜日だからな」
「何を食べてるだろう」
父は肩をすくめた。
「肉だろう。鶏か、豚か」
マッテオは、自分の皿を見た。
薄いスープ。
少しの豆。
小さなパン。
「同じ村なのに」
思わず口にした。
父が顔を上げた。
「何だ?」
「同じ村に住んでいるのに、食べるものが違うんだね」
父はしばらく息子を見ていた。
それから、静かに言った。
「同じ村に住んでいるからといって、同じ暮らしをしているわけじゃない」
マッテオは黙った。
父はパンをちぎった。
「土地を持っている者と、持っていない者では違う」
「でも、働いているのは父さんたちでしょ?」
「そうだ」
「だったら――」
「マッテオ」
父の声が少し強くなった。
「世の中には、働いた者が一番多く食べられるとは限らないこともある」
マッテオは父を見た。
ピエトロは、それ以上何も言わなかった。
母が静かにスープを飲んだ。
食卓には、しばらく沈黙が続いた。
⸻
午後、マッテオは村の外れまで歩いた。
教会の鐘楼が遠くに見える丘の上だった。
そこからは、村全体を見渡すことができた。
小さな家々。
細い道。
畑。
教会。
そして、少し離れた場所に建つモレッティ家の大きな屋敷。
屋敷の煙突からは、白い煙が上がっていた。
マッテオは、その煙を見つめた。
あの家の台所では、今、何が作られているのだろう。
肉が焼かれているのだろうか。
大きな鍋で、濃いスープが煮込まれているのだろうか。
焼きたてのパンが、何個も並んでいるのだろうか。
想像するだけで、腹が減ってきた。
だが、不思議なことに、羨ましいという気持ちだけではなかった。
知りたかった。
なぜ、同じ土地で採れたものが、こんなにも違う食卓に並ぶのか。
なぜ、ある家では肉が当たり前で、別の家ではパンさえ特別なのか。
そして、料理を作る人間は、その違いをどう思っているのだろう。
風が吹いた。
遠くの畑で、枯れた草が揺れた。
マッテオは、母の言葉を思い出した。
――美味しい料理というのは、材料だけで決まるものじゃないんだよ。
誰と食べたか。
どんな日だったか。
それも味のうちだと、母は言った。
ならば、モレッティ家の食卓では、どんな味がするのだろう。
マッテオには分からなかった。
⸻
夕方、村へ戻る途中で、彼はテレーザとすれ違った。
彼女は水桶を持っていた。
「こんなところで何をしていたの?」
「少し歩いていた」
「珍しいわね」
「そう?」
「いつもなら、家で母さんの料理を見ているでしょう」
マッテオは苦笑した。
「そんなに見てないさ」
「見てるわよ」
テレーザは笑った。
それから、彼の顔を見た。
「何かあった?」
「いや」
「本当に?」
マッテオは少し考えた。
「今日、父さんと話したんだ」
「何を?」
「食べ物のこと」
「あなたらしいわね」
「違うんだ」
マッテオは首を横に振った。
「食べ物のことなんだけど、食べ物だけの話じゃなかった」
テレーザは黙って彼を見ていた。
「同じ村に住んでいても、食べるものが違うだろう?」
「ええ」
「それが、何だか不思議でさ」
テレーザは少し考えた。
「不思議じゃないわ」
「どうして?」
「生き方が違うもの」
あまりにも簡単な答えだった。
マッテオは、言葉を失った。
テレーザは続けた。
「でもね、マッテオ」
「何だ?」
「私は、モレッティ家の食卓で食べたいとは思わないわ」
「どうして?」
「知らない人たちと食べるより、知っている人たちと食べる方がいいもの」
マッテオは彼女を見た。
テレーザは少し笑った。
「ただ、毎日パンを食べられたら嬉しいけどね」
二人は笑った。
その笑い声は、夕暮れの道に小さく響いた。
⸻
その夜、マッテオは母の焼いたパンを思い出していた。
小さな丸いパン。
三人で分けた、日曜日のパン。
それは、モレッティ家の食卓に並ぶどんな豪華な料理よりも美味しいのだろうか。
彼には分からなかった。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
あのパンを焼いた母の手を、彼は知っている。
生地をこねるときの力の入れ方も。
焼き上がりを確かめるときの表情も。
家族に分けるとき、いつも自分の分を少なくすることも。
全部、知っている。
それなのに、母がなぜそうするのか、本当のところは分かっていなかった。
マッテオは、暗い天井を見つめた。
料理とは、何なのだろう。
腹を満たすためのものか。
生きるためのものか。
それとも、それ以上の何かなのか。
答えは出なかった。
ただ、いつか知りたいと思った。
母の料理だけではない。
テレーザのパンも。
行商人が見せてくれたビゴリも。
地主の屋敷で作られる料理も。
その一つひとつを、作る人間の顔とともに知りたいと思った。
そのとき、隣の部屋から父の声が聞こえた。
「アンナ」
「何だい?」
「明日、モレッティのところへ行く」
マッテオは息を止めた。
母が何かを言った。
だが、声が小さく、聞き取れなかった。
しばらくして、父が言った。
「頭を下げれば、仕事を戻してもらえるかもしれん」
沈黙が続いた。
やがて、母の声が聞こえた。
「……あの人に、また頭を下げるのかい」
父は答えなかった。
マッテオは寝台の上で、拳を握った。
昼間、教会の前で見た父の姿が浮かんだ。
帽子を胸の前に持ち、黙って立っていた父。
あの大きな手で、何十年も畑を耕してきた父。
その父が、明日また頭を下げるという。
マッテオは目を閉じた。
日曜日の鐘は、もう鳴っていなかった。
明日になれば、また月曜日が始まる。
そして、何も変わらないはずだった村の暮らしが、少しずつ変わり始めていた。
――第四話・了




