第三話 父の手
父の手には、いつも土がついていた。
爪の間に入り込んだ黒い土は、どれだけ洗っても完全には落ちなかった。
指は太く、節くれ立ち、掌には硬い皮が幾重にも重なっている。
マッテオは幼い頃、その手が嫌いだった。
頭を撫でられると痛かったし、肩をつかまれると逃げ出したくなった。
だが十九歳になった今、父の手が自分のものよりずっと大きいことを、不思議に思うことがあった。
同じ畑で働いてきたはずなのに。
同じ土に触れてきたはずなのに。
なぜ、これほど違うのだろう。
⸻
その朝、父のピエトロは珍しくマッテオを起こした。
「支度をしろ」
まだ外は暗かった。
「どこへ?」
「町だ」
「仕事を見つけたの?」
父は頷いた。
「荷運びの仕事があるかもしれん」
マッテオは寝台から起き上がった。
母のアンナは、すでに炉の前に立っていた。
昨日のポレンタが、薄く切られている。
母はそれを鉄板の上で温めていた。
表面が少しずつ乾き、ところどころに焼き色がついていく。
「朝飯を食べてから行きなさい」
アンナが言った。
父は首を横に振った。
「時間がない」
「空腹で歩いても、仕事は見つからないよ」
父は何も言わなかった。
母は焼いたポレンタを布に包み、父に渡した。
「途中で食べなさい」
それから、もう一つの包みをマッテオに差し出した。
「お前の分だよ」
マッテオは受け取った。
まだ温かかった。
⸻
町へ続く道は、霧に包まれていた。
畑の土は湿り、踏み固められた道には、荷車の轍が深く残っている。
父は黙って歩いた。
マッテオも、その後ろを歩いた。
しばらくして、父が口を開いた。
「昨日、母さんと何を話していた」
「昨日?」
「行商人のことだ」
マッテオは少し驚いた。
「聞いていたの?」
「聞こえた」
「別に、大したことじゃない」
「何を見せてもらった」
「ビゴリという食べ物」
父は鼻を鳴らした。
「食い物の話ばかりだな」
マッテオはむっとした。
「いいじゃん」
「悪いとは言っていない」
「いつもそういう言い方をする」
父は答えなかった。
道の脇には、冬枯れの畑が広がっていた。
ところどころに、刈り取られた作物の茎が残っている。
「父さんは、食べ物に興味がないの?」
マッテオが尋ねた。
「食えればいい」
「何でも?」
「ああ」
「母さんの料理も?」
父は足を止めた。
振り返り、息子を見た。
「母さんの料理がどうした」
「何でもいいって言ったじゃないか」
父はしばらく黙っていた。
それから、また歩き始めた。
「お前は、腹が減るということを知らん」
マッテオは立ち止まった。
「知ってるさ」
「そうか」
父は振り返らなかった。
「なら、まだ幸せだ」
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町に着いた頃には、霧が薄くなっていた。
市場の近くには、すでに大勢の男たちが集まっていた。
若い者もいれば、父より年上に見える者もいた。
皆、仕事を探しているのだと分かった。
荷車が何台も並び、商人たちが品物を降ろしている。
父は一人の男に声をかけた。
「人手は要らないか」
男は父を見た。
「何ができる」
「荷運びでも、倉庫の仕事でも」
「今は足りている」
父は頷いた。
「そうか」
それだけ言って、次の荷車へ向かった。
マッテオは、その後ろをついて歩いた。
二人目も駄目だった。
三人目も。
四人目の商人は、父の年齢を聞くと首を横に振った。
「若い者が欲しいんだ」
マッテオは思わず口を開いた。
「僕ならどう?」
商人は彼を見た。
「お前か?」
「十九だ。力仕事ならできる」
商人はマッテオの腕を見た。
それから、父の顔を見た。
「親子か」
「ああ」
「二人はいらん。一人なら、今日だけ使ってやってもいい」
マッテオは父を見た。
ピエトロは何も言わなかった。
「僕がやる」
マッテオが言った。
商人は頷いた。
「じゃあ、あの袋を倉庫まで運べ。日が暮れるまでだ」
⸻
袋は、想像以上に重かった。
中には穀物が入っていた。
肩に担ぐと、布越しに硬い粒が背中へ食い込んだ。
倉庫までは、広場を横切って少し歩かなければならない。
一袋運ぶだけなら、大したことはない。
だが、それを何度も繰り返すうちに、腕が震え始めた。
肩が痛み、腰が重くなった。
マッテオは歯を食いしばった。
父は広場の端に立ち、黙って見ていた。
何度目かの往復で、マッテオは足を滑らせた。
袋が肩から落ちた。
地面に鈍い音が響いた。
「気をつけろ!」
商人が怒鳴った。
「中身を駄目にしたら、賃金から引くぞ!」
マッテオは慌てて袋を持ち上げようとした。
だが、腕に力が入らなかった。
そのとき、横から大きな手が伸びてきた。
父だった。
ピエトロは何も言わず、袋の端をつかんだ。
「持て」
マッテオは反対側を持った。
二人で袋を持ち上げた。
父の手は、やはり大きかった。
⸻
昼になって、商人が休憩を許した。
マッテオは倉庫の壁にもたれ、母が包んでくれたポレンタを取り出した。
すっかり冷たくなっていた。
表面は固く、朝の香ばしさも消えている。
それでも、一口食べると腹の底に温かさが戻るような気がした。
父は隣に座った。
「食わんのか」
マッテオが尋ねた。
「後で食べる」
「朝から何も食べてないだろう」
「平気だ」
マッテオは自分の包みを見た。
二切れあった。
一切れを父に差し出した。
「食えよ」
父は首を横に振った。
「お前が食え」
「二切れもいらない」
「嘘をつくな」
マッテオは黙った。
父は息子の顔を見た。
それから、差し出されたポレンタを受け取った。
「……母さんには言うなよ」
「何を?」
「俺がお前の飯を取ったことだ」
マッテオは思わず笑った。
父も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
二人は並んでポレンタを食べた。
遠くでは、市場の呼び声が聞こえていた。
馬の蹄の音。
荷車の軋む音。
人々の話し声。
町は忙しく動いていた。
だが、その中に父と息子の居場所があるのかどうか、マッテオには分からなかった。
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夕方、仕事が終わった。
商人はマッテオに硬貨を数枚渡した。
「よく働いたな」
それだけだった。
マッテオは硬貨を握りしめた。
自分の力で稼いだ金だった。
父に見せると、ピエトロは頷いた。
「よかったな」
「明日も来れば仕事があるかな」
父は首を横に振った。
「分からん」
「聞いてみようか」
「もう聞いた」
「何て?」
「今日だけだそうだ」
マッテオは硬貨を見つめた。
一日働いて、これだけ。
明日も仕事があるとは限らない。
父は何年も、こうして働いてきたのだろうか。
仕事がある日も。
ない日も。
雨の日も。
雪の日も。
家族を食べさせるために。
「父さん」
「何だ」
「僕、今日初めて分かった気がする」
「何が」
「仕事をするってことが」
父は笑わなかった。
「一日働いただけで、分かるものか」
マッテオは顔を上げた。
父は、遠くの道を見ていた。
「だが、分かろうとするのは悪くない」
それだけ言って、歩き始めた。
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帰り道、空は赤く染まっていた。
霧は晴れ、畑の向こうに低い丘が見えた。
マッテオは父の隣を歩いた。
朝とは違い、二人の歩く速さはほとんど同じだった。
「父さん」
「何だ」
「どうして、ずっと畑で働いてきたの?」
父は少し考えた。
「ほかにできることがなかったからだ」
「嫌じゃなかったの?」
「嫌な日もあった」
「それでも続けたの?」
「ああ」
「どうして?」
父は足を止めた。
そして、自分の手を見た。
「この手で食わせてきたからだ」
マッテオは、父の手を見つめた。
黒く汚れた爪。
ひび割れた指。
厚く硬くなった掌。
「お前が小さかった頃はな」
父が言った。
「この手で、お前を抱き上げたこともあった」
マッテオは驚いて父を見た。
そんな話を聞いたことがなかった。
「覚えていないだろう」
「……うん」
「それでいい」
父は再び歩き始めた。
「子供は、親がしてやったことなんて、全部覚えていなくていいんだ」
マッテオは何も言えなかった。
ただ、父の背中を見ていた。
その背中は、朝より少し小さく見えた。
⸻
家に戻ると、母が夕食の支度をしていた。
鍋の中には、野菜を煮た薄いスープがあった。
玉ねぎの匂いがした。
アンナは二人の顔を見ると、ほっとしたように笑った。
「お帰り」
マッテオは、稼いだ硬貨を食卓に置いた。
「今日、働いたんだ」
母は硬貨を見た。
それから、息子の顔を見た。
「そうかい」
「少しだけど」
「少しじゃないよ」
母は硬貨を手に取った。
「お前が一日働いて得たお金だろう」
マッテオは頷いた。
母は硬貨を大切そうに布に包んだ。
その手つきは、昨日、空になった豆の袋を畳んでいたときと同じだった。
夕食のスープは薄かった。
野菜も少なく、腹が満たされるほどではなかった。
それでも、マッテオは不思議と満足していた。
父は黙って食べていた。
母は時折、二人の顔を見て微笑んだ。
食事が終わる頃、父が口を開いた。
「マッテオ」
「何?」
「明日も町へ行くか」
マッテオは頷いた。
「うん」
「そうか」
父はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「なら、明日は俺とは別に仕事を探してみろ」
「どうして?」
「お前には、お前の道がある」
マッテオは父を見た。
ピエトロは、いつものように無表情だった。
だが、その言葉には、これまで聞いたことのない響きがあった。
許しのようでもあり、別れのようでもあった。
マッテオは、父の手を見た。
あの大きな手。
土に汚れ、傷だらけになった手。
いつか自分の手も、あんなふうになるのだろうか。
そう思った。
けれど、その夜、彼は初めて別のことも考えた。
父とは違う仕事をする自分の姿を。
まだ、どんな仕事なのかは分からなかった。
ただ、いつか自分の手で何かを作り、それを誰かに差し出す日が来るのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考えた。
炉の火が、ゆっくりと小さくなっていった。
――第三話・了




