第二話 パンのない朝
翌朝、食卓にパンはなかった。
マッテオは、空になった木の籠を見つめていた。
いつもなら、固くなった黒パンが一切れか二切れ、布に包まれて入っている。焼きたてではない。指で押してもへこまず、歯を立てれば顎が痛くなるようなパンだった。
それでも、何もないよりはよかった。
「今日はパンはないの?」
母のアンナは炉の前に立っていた。
「ないよ」
「昨日もなかった、、、」
「そうだったね」
「買わないの?」
母は振り返らなかった。
鍋の中で湯が温まり始めている。
「今日はポレンタにするよ」
「また?」
「嫌なら食べなくてもいい」
マッテオは黙った。
母が本気で怒っているわけではないことは分かっていた。だが、それ以上何かを言えば、母を困らせるだけだということも分かっていた。
アンナは棚から布袋を取り出した。
黄色い粉が入っていた。
トウモロコシの粉だった。
母はそれを少しずつ鍋に落とし、木の棒で混ぜ始めた。
最初は水のようだったものが、次第に重くなっていく。
湯気が立ち、粉の匂いが台所に広がった。
マッテオは椅子に座り、その様子を眺めていた。
「母さん」
「なんだい」
「どうして、ずっと混ぜるの?」
「焦げるからだよ」
「少しくらい焦げても食べれるよ」
「焦げたところを、お前が全部食べてくれるならね」
マッテオは口を閉じた。
母は小さく笑った。
その笑い声は、すぐに鍋を混ぜる音に消えた。
⸻
父のピエトロは、まだ帰っていなかった。
昨日の夕方、仕事を探しに出たきりだった。
夜には一度戻ったものの、ほとんど何も話さず、今朝も暗いうちに出ていった。
マッテオは父の椅子を見た。
いつも同じ場所に置かれた、背もたれの低い木の椅子だった。
父は食事のとき、決まってそこに座る。
誰もその椅子には座らなかった。
「父さんは、どこへ行ったの?」
「隣の村だよ」
「仕事はあるの?」
「あるかもしれない」
「誰かが言ったの?」
母は答えなかった。
マッテオは、それ以上尋ねるのをやめた。
炉の中で薪が小さく音を立てた。
アンナは鍋を混ぜ続けている。
額には薄く汗が浮かんでいた。
冬の朝だというのに、炉の前だけは暑かった。
「代るよ」
マッテオが言った。
母は少し驚いた顔をした。
「できるのかい」
「混ぜるだけでしょ?」
「そう思うなら、やってごらん」
マッテオは立ち上がり、母から木の棒を受け取った。
鍋の中身は、思ったよりもずっと重かった。
棒を動かすたび、黄色い塊がゆっくりと形を変える。
底をさらうように混ぜなければ、すぐに動かなくなる。
「とても重いね」
「そうだろう」
「毎日こんなことをしているの?」
「毎日じゃないよ」
母は笑った。
「食べる日だけさ」
マッテオは返事をしなかった。
しばらくして、腕が痛くなってきた。
それでも、母に代わってほしいとは言わなかった。
鍋を混ぜながら、彼はふと思った。
畑仕事を終えて帰ってきた父は、いつも黙って食卓につく。
母はその前から、こうして火のそばに立っている。
父が一日の仕事を終える頃、母もまた、一日の仕事を終えようとしているのだ。
けれど、母の仕事が終わったと言う者は、誰もいなかった。
⸻
昼近くになって、父が帰ってきた。
帽子には霧の湿り気が残り、靴には泥がついていた。
「どうだった?」
マッテオは尋ねた。
父は帽子を脱ぎ、壁に掛けた。
「駄目だった」
それだけだった。
アンナは鍋を火から下ろした。
「食べよう」
木の板を水で軽く湿らせ、その上にポレンタを広げる。
黄色い塊が、ゆっくりと形を整えていく。
湯気が立ち上った。
母は糸を取り出した。
両手で張り、ポレンタに押し当てる。
柔らかな塊が、きれいに切り分けられた。
マッテオはその手つきを見ていた。
包丁を使えばいいのに、と昔は思っていた。
だが、母はいつも糸を使った。
包丁にくっつかず、形も崩れにくいからだ。
母は父の皿に大きな一切れを置いた。
次にマッテオの皿。
最後に、自分の皿。
父はそれを見て言った。
「少ないな」
「粉が少ししかなかったからね」
「そうじゃない。お前の分だ」
アンナは笑った。
「私はあまり腹が減っていないんだよ」
父は何も言わなかった。
しばらくして、自分の皿から一切れを取り、母の皿に置いた。
「食え」
「でも」
「食えと言っている」
アンナは黙って、その一切れを見つめた。
やがて小さく頷いた。
マッテオは、二人のやり取りを見ていた。
父は優しい言葉を口にする人ではなかった。
母も、父に感謝を伝えることはほとんどなかった。
けれど、二人の間には、マッテオの知らない会話があるのだと思った。
それは言葉ではなく、皿の上で交わされる会話だった。
⸻
午後、マッテオは村の広場へ出かけた。
昨日の行商人が、まだいるかもしれないと思ったからだった。
広場には数人の男たちが集まり、低い声で話していた。
収穫のこと。
地主のこと。
そして、海の向こうへ渡った人々のこと。
マッテオは足を止めた。
「また三人、出るそうだ」
一人の男が言った。
「どこへ」
「ブラジルだ」
「そんな遠くへ行って、何をするの?」
「畑仕事さ。ここでするのと同じだ」
男たちは笑わなかった。
マッテオは、その言葉を聞きながら広場を横切った。
行商人の荷車は、昨日と同じ場所にあった。
男は布の上に商品を並べていた。
「おや、昨日の若いのじゃないか」
「まだいたの?」
「売るものが残っているうちはな」
男は笑った。
「昨日の食べ物の話を聞きに来たのか?」
マッテオは頷いた。
「昨日は名前を教えてくれなかったからさ」
「ああ、そうだったな」
行商人は荷車の奥から、小さな包みを取り出した。
中には、細長く乾いたものが入っていた。
マッテオは顔を近づけた。
「麦?」
「小麦から作るものだ」
「パンじゃないの?」
「パンではない」
「じゃあ、何?」
「パスタさ」
マッテオは眉をひそめた。
「パスタ?」
「知らないのか」
「名前くらいは聞いたことがあるよ」
男は包みを開いた。
乾いた細長い生地が、何本も束になっている。
「これはビゴリという。太い麺だ」
「麺?」
「小麦粉を練って、穴の開いた道具から押し出すんだ。土地によって作り方も材料も違うがな」
マッテオは一本手に取った。
固かった。
簡単には曲がらない。
「これをどうやって食べるの?」
「湯で茹でる」
「それだけ?」
「まさか」
男は笑った。
「油や魚を使うこともある。土地によって、いろいろな食べ方があるんだ」
マッテオは、乾いた麺を見つめた。
自分の村では、食卓の中心はポレンタだった。
豆を煮ることもあれば、野菜を入れたスープを作ることもある。
だが、同じ穀物から、こんな形の食べ物が作れるとは思わなかった。
「美味しいの?」
「食べ方によるさ」
「どういう意味?」
行商人は、少し考えてから言った。
「同じ材料でも、土地が変われば料理が変わる。料理が変われば、それを食べる人間の暮らしも見えてくる」
マッテオには、その意味がよく分からなかった。
だが、なぜか忘れられない言葉になった。
「お前、料理が好きなのか?」
男が尋ねた。
マッテオは答えに迷った。
料理が好きなのだろうか。
母の料理を見るのは好きだった。
食べることも好きだった。
けれど、自分で料理を作ることについては、ほとんど考えたことがなかった。
「分からない」
正直に答えると、男は笑った。
「それなら、一度作ってみればいい」
⸻
夕方、マッテオが家に戻ると、母は炉の灰を片づけていた。
父の姿はなかった。
「どこへ行っていたんだい」
「広場だよ」
「何か買ったのかい」
「何も」
マッテオは椅子に座った。
昼に食べたポレンタの味が、まだ口の中に残っている気がした。
「母さん」
「なんだい」
「ポレンタって、どこでも食べるの?」
アンナは手を止めた。
「どこでも、というわけじゃないだろうね」
「じゃあ、ほかの土地では何を食べてるの?」
「さあね。パンをよく食べるところもあるだろうし、米を食べるところもあるだろうよ」
「パスタは?」
母は振り返った。
「パスタ?」
「今日、行商人に見せてもらった」
「ああ、あの男かい」
「ビゴリというものだった」
アンナは少し考えた。
「聞いたことはあるよ」
「食べたことは?」
「ずっと昔にね」
マッテオは身を乗り出した。
「どんな味だった?」
母は笑った。
「そんな昔のこと、覚えていないよ」
「でも、美味しかったんでしょ?」
「そうだね」
母は炉のそばに腰を下ろした。
「でもね、マッテオ」
「何?」
「美味しい料理というのは、材料だけで決まるものじゃないんだよ」
マッテオは黙った。
母は、窓の外を見た。
畑の向こうに、夕日が沈みかけていた。
「誰と食べたか。どんな日だったか。そういうことも、味のうちなんだと思うよ」
マッテオは、その言葉を胸の中で繰り返した。
誰と食べたか。
どんな日だったか。
昼のポレンタを思い出した。
父が母の皿に、自分の分を分けたこと。
母が何も言わずに、それを受け取ったこと。
あのポレンタは、きっと忘れないだろう。
たとえ、もっと美味しい料理を食べる日が来たとしても。
⸻
その夜、マッテオは寝台の上で考えていた。
自分は、この村の外をほとんど知らない。
隣の村へ行ったことはある。
市場のある町へ出かけたこともある。
だが、それより遠くへ行ったことはなかった。
ヴェネツィアという街があることは知っている。
海があり、大きな船が行き交い、見たこともない食べ物が集まる場所だと聞いたことがある。
どんな匂いがするのだろう。
どんな人間が暮らしているのだろう。
そして、そこでは何を食べているのだろう。
マッテオは目を閉じた。
母が鍋を混ぜる音が、耳の奥に残っていた。
木の棒が鍋の底をこする、重く、ゆっくりとした音。
あの音は、毎朝聞いてきた。
当たり前の音だった。
けれど、いつかこの家を離れたら、もう聞こえなくなるのだろうか。
そう考えると、胸の奥が少し痛んだ。
隣の部屋から、父と母の声が聞こえてきた。
「明日、もう一度行ってみる」
父の声だった。
「どこへ?」
「町だ。荷運びの仕事があるかもしれん」
「そうかい」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、母が言った。
「マッテオのことは、どうするんだい」
父はすぐには答えなかった。
マッテオは息を潜めた。
長い沈黙のあと、父の低い声が聞こえた。
「……あいつまで、ここに縛りつけるわけにはいかん」
マッテオは目を開けた。
暗い天井を見つめた。
父が何を考えているのか、彼には分からなかった。
ただ、その言葉だけが、いつまでも耳に残った。
翌朝も、きっと母はポレンタを作るだろう。
父は仕事を探しに出かけるだろう。
自分も、いつものように一日を過ごすのだろう。
そう思っていた。
けれど、何かが少しずつ変わり始めていた。
それは、まだ名前のない変化だった。
そしてマッテオは、その変化が自分をどこへ連れていくのか、知る由もなかった。
――第二話・了




