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名もなきイタリアの食卓の記憶  作者: イタリア人
第一部|息を詰まらせた豆
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3/6

第二話 パンのない朝


翌朝、食卓にパンはなかった。


マッテオは、空になった木の籠を見つめていた。


いつもなら、固くなった黒パンが一切れか二切れ、布に包まれて入っている。焼きたてではない。指で押してもへこまず、歯を立てれば顎が痛くなるようなパンだった。


それでも、何もないよりはよかった。


「今日はパンはないの?」


母のアンナは炉の前に立っていた。


「ないよ」


「昨日もなかった、、、」


「そうだったね」


「買わないの?」


母は振り返らなかった。


鍋の中で湯が温まり始めている。


「今日はポレンタにするよ」


「また?」


「嫌なら食べなくてもいい」


マッテオは黙った。


母が本気で怒っているわけではないことは分かっていた。だが、それ以上何かを言えば、母を困らせるだけだということも分かっていた。


アンナは棚から布袋を取り出した。


黄色い粉が入っていた。


トウモロコシの粉だった。


母はそれを少しずつ鍋に落とし、木の棒で混ぜ始めた。


最初は水のようだったものが、次第に重くなっていく。


湯気が立ち、粉の匂いが台所に広がった。


マッテオは椅子に座り、その様子を眺めていた。


「母さん」


「なんだい」


「どうして、ずっと混ぜるの?」


「焦げるからだよ」


「少しくらい焦げても食べれるよ」


「焦げたところを、お前が全部食べてくれるならね」


マッテオは口を閉じた。


母は小さく笑った。


その笑い声は、すぐに鍋を混ぜる音に消えた。


⸻


父のピエトロは、まだ帰っていなかった。


昨日の夕方、仕事を探しに出たきりだった。


夜には一度戻ったものの、ほとんど何も話さず、今朝も暗いうちに出ていった。


マッテオは父の椅子を見た。


いつも同じ場所に置かれた、背もたれの低い木の椅子だった。


父は食事のとき、決まってそこに座る。


誰もその椅子には座らなかった。


「父さんは、どこへ行ったの?」


「隣の村だよ」


「仕事はあるの?」


「あるかもしれない」


「誰かが言ったの?」


母は答えなかった。


マッテオは、それ以上尋ねるのをやめた。


炉の中で薪が小さく音を立てた。


アンナは鍋を混ぜ続けている。


額には薄く汗が浮かんでいた。


冬の朝だというのに、炉の前だけは暑かった。


「代るよ」


マッテオが言った。


母は少し驚いた顔をした。


「できるのかい」


「混ぜるだけでしょ?」


「そう思うなら、やってごらん」


マッテオは立ち上がり、母から木の棒を受け取った。


鍋の中身は、思ったよりもずっと重かった。


棒を動かすたび、黄色い塊がゆっくりと形を変える。


底をさらうように混ぜなければ、すぐに動かなくなる。


「とても重いね」


「そうだろう」


「毎日こんなことをしているの?」


「毎日じゃないよ」


母は笑った。


「食べる日だけさ」


マッテオは返事をしなかった。


しばらくして、腕が痛くなってきた。


それでも、母に代わってほしいとは言わなかった。


鍋を混ぜながら、彼はふと思った。


畑仕事を終えて帰ってきた父は、いつも黙って食卓につく。


母はその前から、こうして火のそばに立っている。


父が一日の仕事を終える頃、母もまた、一日の仕事を終えようとしているのだ。


けれど、母の仕事が終わったと言う者は、誰もいなかった。


⸻


昼近くになって、父が帰ってきた。


帽子には霧の湿り気が残り、靴には泥がついていた。


「どうだった?」


マッテオは尋ねた。


父は帽子を脱ぎ、壁に掛けた。


「駄目だった」


それだけだった。


アンナは鍋を火から下ろした。


「食べよう」


木の板を水で軽く湿らせ、その上にポレンタを広げる。


黄色い塊が、ゆっくりと形を整えていく。


湯気が立ち上った。


母は糸を取り出した。


両手で張り、ポレンタに押し当てる。


柔らかな塊が、きれいに切り分けられた。


マッテオはその手つきを見ていた。


包丁を使えばいいのに、と昔は思っていた。


だが、母はいつも糸を使った。


包丁にくっつかず、形も崩れにくいからだ。


母は父の皿に大きな一切れを置いた。


次にマッテオの皿。


最後に、自分の皿。


父はそれを見て言った。


「少ないな」


「粉が少ししかなかったからね」


「そうじゃない。お前の分だ」


アンナは笑った。


「私はあまり腹が減っていないんだよ」


父は何も言わなかった。


しばらくして、自分の皿から一切れを取り、母の皿に置いた。


「食え」


「でも」


「食えと言っている」


アンナは黙って、その一切れを見つめた。


やがて小さく頷いた。


マッテオは、二人のやり取りを見ていた。


父は優しい言葉を口にする人ではなかった。


母も、父に感謝を伝えることはほとんどなかった。


けれど、二人の間には、マッテオの知らない会話があるのだと思った。


それは言葉ではなく、皿の上で交わされる会話だった。


⸻


午後、マッテオは村の広場へ出かけた。


昨日の行商人が、まだいるかもしれないと思ったからだった。


広場には数人の男たちが集まり、低い声で話していた。


収穫のこと。


地主のこと。


そして、海の向こうへ渡った人々のこと。


マッテオは足を止めた。


「また三人、出るそうだ」


一人の男が言った。


「どこへ」


「ブラジルだ」


「そんな遠くへ行って、何をするの?」


「畑仕事さ。ここでするのと同じだ」


男たちは笑わなかった。


マッテオは、その言葉を聞きながら広場を横切った。


行商人の荷車は、昨日と同じ場所にあった。


男は布の上に商品を並べていた。


「おや、昨日の若いのじゃないか」


「まだいたの?」


「売るものが残っているうちはな」


男は笑った。


「昨日の食べ物の話を聞きに来たのか?」


マッテオは頷いた。


「昨日は名前を教えてくれなかったからさ」


「ああ、そうだったな」


行商人は荷車の奥から、小さな包みを取り出した。


中には、細長く乾いたものが入っていた。


マッテオは顔を近づけた。


「麦?」


「小麦から作るものだ」


「パンじゃないの?」


「パンではない」


「じゃあ、何?」


「パスタさ」


マッテオは眉をひそめた。


「パスタ?」


「知らないのか」


「名前くらいは聞いたことがあるよ」


男は包みを開いた。


乾いた細長い生地が、何本も束になっている。


「これはビゴリという。太い麺だ」


「麺?」


「小麦粉を練って、穴の開いた道具から押し出すんだ。土地によって作り方も材料も違うがな」


マッテオは一本手に取った。


固かった。


簡単には曲がらない。


「これをどうやって食べるの?」


「湯で茹でる」


「それだけ?」


「まさか」


男は笑った。


「油や魚を使うこともある。土地によって、いろいろな食べ方があるんだ」


マッテオは、乾いた麺を見つめた。


自分の村では、食卓の中心はポレンタだった。


豆を煮ることもあれば、野菜を入れたスープを作ることもある。


だが、同じ穀物から、こんな形の食べ物が作れるとは思わなかった。


「美味しいの?」


「食べ方によるさ」


「どういう意味?」


行商人は、少し考えてから言った。


「同じ材料でも、土地が変われば料理が変わる。料理が変われば、それを食べる人間の暮らしも見えてくる」


マッテオには、その意味がよく分からなかった。


だが、なぜか忘れられない言葉になった。


「お前、料理が好きなのか?」


男が尋ねた。


マッテオは答えに迷った。


料理が好きなのだろうか。


母の料理を見るのは好きだった。


食べることも好きだった。


けれど、自分で料理を作ることについては、ほとんど考えたことがなかった。


「分からない」


正直に答えると、男は笑った。


「それなら、一度作ってみればいい」


⸻


夕方、マッテオが家に戻ると、母は炉の灰を片づけていた。


父の姿はなかった。


「どこへ行っていたんだい」


「広場だよ」


「何か買ったのかい」


「何も」


マッテオは椅子に座った。


昼に食べたポレンタの味が、まだ口の中に残っている気がした。


「母さん」


「なんだい」


「ポレンタって、どこでも食べるの?」


アンナは手を止めた。


「どこでも、というわけじゃないだろうね」


「じゃあ、ほかの土地では何を食べてるの?」


「さあね。パンをよく食べるところもあるだろうし、米を食べるところもあるだろうよ」


「パスタは?」


母は振り返った。


「パスタ?」


「今日、行商人に見せてもらった」


「ああ、あの男かい」


「ビゴリというものだった」


アンナは少し考えた。


「聞いたことはあるよ」


「食べたことは?」


「ずっと昔にね」


マッテオは身を乗り出した。


「どんな味だった?」


母は笑った。


「そんな昔のこと、覚えていないよ」


「でも、美味しかったんでしょ?」


「そうだね」


母は炉のそばに腰を下ろした。


「でもね、マッテオ」


「何?」


「美味しい料理というのは、材料だけで決まるものじゃないんだよ」


マッテオは黙った。


母は、窓の外を見た。


畑の向こうに、夕日が沈みかけていた。


「誰と食べたか。どんな日だったか。そういうことも、味のうちなんだと思うよ」


マッテオは、その言葉を胸の中で繰り返した。


誰と食べたか。


どんな日だったか。


昼のポレンタを思い出した。


父が母の皿に、自分の分を分けたこと。


母が何も言わずに、それを受け取ったこと。


あのポレンタは、きっと忘れないだろう。


たとえ、もっと美味しい料理を食べる日が来たとしても。


⸻


その夜、マッテオは寝台の上で考えていた。


自分は、この村の外をほとんど知らない。


隣の村へ行ったことはある。


市場のある町へ出かけたこともある。


だが、それより遠くへ行ったことはなかった。


ヴェネツィアという街があることは知っている。


海があり、大きな船が行き交い、見たこともない食べ物が集まる場所だと聞いたことがある。


どんな匂いがするのだろう。


どんな人間が暮らしているのだろう。


そして、そこでは何を食べているのだろう。


マッテオは目を閉じた。


母が鍋を混ぜる音が、耳の奥に残っていた。


木の棒が鍋の底をこする、重く、ゆっくりとした音。


あの音は、毎朝聞いてきた。


当たり前の音だった。


けれど、いつかこの家を離れたら、もう聞こえなくなるのだろうか。


そう考えると、胸の奥が少し痛んだ。


隣の部屋から、父と母の声が聞こえてきた。


「明日、もう一度行ってみる」


父の声だった。


「どこへ?」


「町だ。荷運びの仕事があるかもしれん」


「そうかい」


しばらく沈黙が続いた。


やがて、母が言った。


「マッテオのことは、どうするんだい」


父はすぐには答えなかった。


マッテオは息を潜めた。


長い沈黙のあと、父の低い声が聞こえた。


「……あいつまで、ここに縛りつけるわけにはいかん」


マッテオは目を開けた。


暗い天井を見つめた。


父が何を考えているのか、彼には分からなかった。


ただ、その言葉だけが、いつまでも耳に残った。


翌朝も、きっと母はポレンタを作るだろう。


父は仕事を探しに出かけるだろう。


自分も、いつものように一日を過ごすのだろう。


そう思っていた。


けれど、何かが少しずつ変わり始めていた。


それは、まだ名前のない変化だった。


そしてマッテオは、その変化が自分をどこへ連れていくのか、知る由もなかった。


――第二話・了

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