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名もなきイタリアの食卓の記憶  作者: イタリア人
第一部|息を詰まらせた豆
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第一話 母は豆を煮ていた


一八九八年、ヴェネト。


母は、豆を煮ていた。


夜明け前の台所には、まだ冬の冷たさが残っていた。石造りの家の壁は湿り、窓の隙間から吹き込む風が、炉の火を小さく揺らしている。


マッテオ・ベルナルディは、粗末な木の椅子に腰掛け、母の背中を見ていた。


鍋の中では、白い豆が静かに煮えている。


「母さん、今日は肉を入れないの?」


アンナは振り返らなかった。


「肉なんて、どこにあるんだい」


「昨日、父さんが持って帰ると言っていたよ」


「昨日のことは昨日のことだよ」


マッテオは黙った。


父のピエトロは、三日前から仕事に出ていない。


いつもなら夜明け前に家を出て、暗くなる頃に帰ってくる。土に汚れた靴を脱ぎ、何も言わずに食卓につく。


だが、この三日間、父は家の外に出ようとしなかった。


理由を尋ねても、返事はなかった。


アンナは鍋の豆を一粒すくい、指でつぶした。


「もういいね」


火から鍋を下ろし、別の器に豆を移す。


そこへ少量の油を加え、丁寧に混ぜた。


「母さん」


「なんだい」


「どうして、そんなにゆっくり混ぜるの?」


「急いだって、豆は逃げないよ」


アンナは笑った。


それから器に蓋をした。


「これで、しばらく待つんだ」


「もう煮えているよ?」


「煮えるのと、出来上がるのは違うんだよ」


マッテオには、その違いが分からなかった。


母は蓋の上に手を置いた。


「ファジオイ・ソフェガイ」


「ファジオイ・ソフェガイ?」


「息を詰まらせた豆さ」


「豆が息をするの?」


「さあね。昔の人に聞いてごらん」


母は、そう言って笑った。


マッテオは、蓋の向こうにある豆を想像した。


温かい器の中で、豆は静かに眠っているのだろうか。


それとも、本当に息を詰まらせているのだろうか。


彼には分からなかった。


ただ、母が蓋を開けるまで待つ時間が、昔から好きだった。


その間だけは、誰も食卓を離れないからだ。


⸻


父が帰ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


扉が開き、冷たい風が台所に流れ込んだ。


ピエトロは帽子を脱ぎ、壁に掛けた。


その手には何もなかった。


「仕事は?」


アンナが尋ねた。


父は答えず、椅子に座った。


しばらくして、低い声で言った。


「来月から、人を減らすそうだ」


アンナの手が止まった。


「誰を」


「俺たちだ」


炉の中で薪が崩れた。


マッテオは、父の顔を見た。


ピエトロは、いつもと同じように無表情だった。


しかし、その手は震えていた。


「地主のところへ行ってくる」


マッテオは立ち上がった。


「何をしに行く」


「仕事を探すんだ」


「お前に何ができる」


父の言葉は鋭かった。


マッテオは唇を噛んだ。


畑仕事なら、子供の頃から手伝ってきた。


薪を割ることも、家畜の世話もできる。


だが、それだけでは父を納得させられないことを知っていた。


アンナが静かに口を開いた。


「先に食べよう」


器の蓋を取る。


湯気が立ち上った。


温かい豆の匂いが、冷えた台所に広がった。


母は三人の皿に豆を分けた。


父の皿には、少しだけ多く盛った。


ピエトロはそれを見て、眉をひそめた。


「お前の分が少ない」


「私はさっき味見をしたからね」


「嘘をつくな」


アンナは何も言わなかった。


マッテオは、自分の皿を見つめた。


豆は柔らかく、油をまとって、鈍く光っていた。


彼は一口食べた。


昨日も豆だった。


一昨日も、その前の日も。


それなのに、今日の豆は、なぜかいつもより美味しかった。


「母さん」


「なんだい」


「どうして今日は、こんなに美味しいんだろう」


アンナは答えなかった。


代わりに、息子の皿へ自分の豆を二粒移した。


「温かいうちに食べなさい」


そのときマッテオは、初めて気づいた。


母はまだ、一口も食べていなかった。


⸻


その夜、マッテオは眠れなかった。


隣の部屋から、父と母の話し声が聞こえていた。


土地のこと。


借金のこと。


そして、村を出ていった人々のこと。


アメリカへ渡った者もいる。


街で働き始めた者もいる。


帰ってこなかった者もいる。


マッテオは、昼間の豆の味を思い出した。


母は、いつも同じように豆を煮る。


けれど、その日によって味が違う。


豆が違うのか。


火が違うのか。


それとも、食べる人間が違うのか。


答えは分からなかった。


翌朝、彼は母より早く起きた。


炉の前に立ち、昨日使った鍋を手に取った。


底には、豆が三粒だけ残っていた。


マッテオはそれを見つめた。


そして、まだ誰にも聞こえないほど小さな声で言った。


「俺も、料理を覚えよう」


それが、彼の長い旅の始まりだった。

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