第五話 最後の袋
父が家を出たのは、まだ朝霧の残る頃だった。
マッテオが目を覚ましたとき、台所には母のアンナが一人で座っていた。
炉の火は小さく、鍋には昨日のスープが少し残っている。
「父さんは?」
「もう出かけたよ」
「モレッティさんのところ?」
母は頷いた。
マッテオは窓の外を見た。
畑の向こうには、低い丘が連なっている。その斜面の上に、モレッティ家の屋敷があった。
村のどこからでも見える、大きな石造りの建物だった。
「僕も一緒に行けばよかったかな」
アンナは首を横に振った。
「今日は、お父さん一人で行かせてあげなさい」
「でも……」
「分かっているよ」
母は小さく笑った。
「心配なんだろう?」
マッテオは返事をしなかった。
アンナは椅子から立ち上がり、炉の火に細い薪を一本加えた。
「お父さんはね、昔から人に頼むのが苦手なんだよ」
「知ってる」
「でも、頼まなければならないときもある」
母は炎を見つめた。
「生きていくって、そういうこともあるんだよ」
マッテオは黙って頷いた。
⸻
朝食は、薄く切ったポレンタだった。
母は昨日の残りを鉄板で温め、二枚の皿に分けた。
「母さんの分は?」
「あとで食べるよ」
マッテオは母の顔を見た。
その言葉を、この数日で何度聞いただろう。
「一緒に食べようよ」
「私は大丈夫だよ」
「でも、せっかく温かいんだから」
アンナは少し困ったように笑った。
「お前は、いつからそんなに世話焼きになったんだい」
「母さんに似たのかもしれないね」
そう言うと、母は声を出して笑った。
久しぶりに聞く笑い声だった。
マッテオは自分のポレンタを半分に分けた。
「これ、母さんの分」
「お前が食べなさい」
「僕は昨日、少し食べすぎたから」
「そんなこと、あるものか」
母は呆れたように言った。
それでも、差し出されたポレンタを受け取った。
二人は炉のそばに座り、黙って食べた。
外では、村の人々が仕事へ向かう足音が聞こえていた。
⸻
昼近くになっても、父は帰ってこなかった。
マッテオは薪を割り、水を汲み、家の裏に積まれた道具を片づけた。
何かしていないと落ち着かなかった。
ときどき道へ出て、丘の方を眺めた。
父の姿は見えなかった。
「マッテオ」
母が戸口から呼んだ。
「少し手伝っておくれ」
台所へ戻ると、アンナは棚の前に立っていた。
古い木箱の蓋が開いている。
中には、布袋がいくつか入っていた。
小麦粉の袋。
トウモロコシ粉の袋。
そして、一番奥に置かれた小さな麻袋。
母はそれを取り出した。
「これを使おうと思うんだ」
マッテオは袋を見た。
「豆?」
「ああ」
「まだ残っていたんだね」
「少しだけね」
母は袋の口を開いた。
中には、乾燥した豆が入っていた。
白いものもあれば、薄い茶色のものもある。
形は不揃いで、いくつかには小さな傷がついていた。
「全部使うの?」
マッテオが尋ねた。
母はしばらく豆を見つめた。
「今日は、使おうと思うよ」
「でも、冬はまだ長いよ」
「そうだね」
「少し残しておいた方がいいんじゃないかな」
アンナは息子を見た。
その目は、いつもより少し優しかった。
「マッテオ」
「うん?」
「食べ物はね、残しておくためだけにあるんじゃないんだよ」
マッテオは黙った。
「食べなければならない日があるんだ」
母は袋の口を閉じた。
「今日は、そういう日だと思う」
⸻
父が帰ってきたのは、午後になってからだった。
扉が開いた音で、マッテオは顔を上げた。
ピエトロは帽子を手に持ち、しばらく戸口に立っていた。
靴には泥がついていた。
だが、その顔には、朝とは違う疲れが浮かんでいた。
「お帰り、父さん」
マッテオが声をかけた。
父は小さく頷いた。
「ただいま」
アンナが近づいた。
「どうだった?」
ピエトロは帽子を壁に掛けた。
それから椅子に腰を下ろした。
「仕事は戻らん」
短い言葉だった。
母は何も言わなかった。
「ほかの仕事も、ないそうだ」
父は続けた。
「春になれば、また人手が要るかもしれん。だが、それまでは……」
言葉が途切れた。
マッテオは父の顔を見た。
「何か、ほかに方法はないのかな」
父は首を横に振った。
「分からん」
「町で探してみるのは?」
「探した」
「もう少し遠くなら……」
「マッテオ」
父の声は静かだった。
「今日は、もうその話をしたくない」
マッテオは口を閉じた。
「……ごめん、父さん」
ピエトロは何も答えなかった。
しばらくして、母が言った。
「お腹が空いただろう」
父は首を横に振った。
「食欲はない」
「それでも、少しは食べなさい」
アンナは炉の方へ向かった。
マッテオは父の手を見た。
いつも土に汚れていた手。
昨日、重い袋を持ち上げてくれた手。
その手が、膝の上で力なく開かれていた。
⸻
夕方、母は豆を煮始めた。
乾燥した豆は、前の晩から水に浸してあったものだった。
マッテオはそのことに気づき、少し驚いた。
「母さん、昨日から準備していたの?」
「そうだよ」
「今日、豆を食べるつもりだったんだね」
アンナは頷いた。
「お父さんが帰ってきたら、温かいものを食べさせたかったから」
マッテオは鍋を見た。
豆は水の中で、ゆっくりと揺れていた。
「手伝ってもいい?」
「もちろん」
母は木の匙を渡した。
「まず、火を見ておくれ」
マッテオは炉の前にしゃがんだ。
薪を少し動かすと、炎が鍋の底を包んだ。
「強すぎるかな」
「もう少し弱くしてごらん」
言われた通りに薪を引いた。
炎が小さくなった。
「これくらい?」
「そう、それでいい」
母は鍋の中を覗いた。
「急がなくていいんだよ」
マッテオは頷いた。
しばらくして、母が言った。
「料理はね、待つことも大切なんだ」
「待つこと?」
「そう。火を強くすれば、何でも早くできるわけじゃない」
マッテオは鍋を見つめた。
「人間も、同じなのかもしれないね」
思わず口にすると、母は笑った。
「どうだろうね」
⸻
豆が柔らかくなる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
母は鍋から豆を取り出し、温めた器に移した。
少量の油と調味料を加え、丁寧に混ぜる。
それから蓋をした。
「ファジオイ・ソフェガイ」
マッテオが言った。
母は顔を上げた。
「覚えていたんだね」
「うん」
「どういう意味だった?」
「息を詰まらせた豆」
「そう」
母は笑った。
「よく覚えていたね」
マッテオは蓋を見つめた。
「母さん」
「何だい」
「どうして、蓋をするんだろう」
「温かさを逃がさないためだよ」
「それだけ?」
母は少し考えた。
「それだけじゃないかもしれないね」
「どういうこと?」
「私にも、全部は分からないよ」
アンナは椅子に腰を下ろした。
「ただ、私の母さんも、こうしていたんだ」
マッテオは母を見た。
「おばあちゃんも?」
「ああ」
「その前も?」
「きっとね」
母は小さく笑った。
「料理っていうのは、そうやって残っていくものなのかもしれないね」
マッテオは黙って頷いた。
母の母。
そのまた母。
顔も知らない人々が、同じように豆を煮ていた。
同じように蓋をして、家族が食卓につくのを待っていた。
そう考えると、目の前の小さな器が、急に不思議なものに思えた。
⸻
夕食の時間になった。
母は三人の皿に豆を分けた。
父の皿には、少し多く。
マッテオの皿には、それより少なく。
自分の皿には、いつものように控えめに。
マッテオは母を見た。
「母さん、今日は同じくらい食べようよ」
アンナは笑った。
「私はこれで十分だよ」
「でも……」
「大丈夫」
母はそう言って、皿を持ち上げた。
父は黙って豆を食べ始めた。
一口。
また一口。
しばらくして、ピエトロの手が止まった。
「アンナ」
「何だい?」
「美味いな」
母は少し驚いたように父を見た。
「そうかい」
「ああ」
父はもう一口食べた。
「昔、お前の母親が作ってくれた豆を思い出す」
アンナは笑った。
「母さんの豆は、もっと美味しかったよ」
「いや」
ピエトロは首を横に振った。
「同じ味だ」
マッテオは二人を見ていた。
父が母の料理を褒めることは、めったになかった。
それだけに、その言葉は不思議と胸に残った。
「父さん」
マッテオが言った。
「僕も、いつかこの豆を作れるようになりたいな」
父は顔を上げた。
「作ればいい」
「でも、母さんみたいにはできないと思う」
ピエトロは少し考えた。
「最初から同じようにできるものか」
「そうだね」
「覚えればいい」
父はそれだけ言って、また豆を食べ始めた。
マッテオは、少し嬉しくなった。
⸻
食事が終わると、父は炉のそばに座った。
母は皿を片づけている。
マッテオは手伝おうと立ち上がった。
そのとき、父が声をかけた。
「マッテオ」
「何、父さん?」
「少し話がある」
マッテオは椅子に戻った。
父はしばらく黙っていた。
炉の火が、静かに揺れている。
「今日、モレッティに言われた」
「何を?」
「若い者なら、町へ出た方がいいと」
マッテオは父を見た。
「町へ?」
「ああ」
「仕事があるのかな」
「分からん」
父は手を組んだ。
「だが、この村にいても、今は仕事がない」
マッテオは黙った。
父は続けた。
「お前は、まだ若い」
「うん」
「俺と同じように、畑だけで一生を終える必要はない」
マッテオは父の顔を見た。
「父さんは、それでよかったの?」
ピエトロは少し驚いたようだった。
「何がだ」
「ずっと畑で働いてきたこと」
父は答えなかった。
長い沈黙があった。
やがて、ピエトロは言った。
「よかったかどうかは、分からん」
マッテオは黙って聞いていた。
「だが、後悔ばかりしていたわけじゃない」
父は母の方を見た。
「この家があって、お前たちがいる」
それから、息子に視線を戻した。
「それで十分だと思えた日もあった」
マッテオは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
父は続けた。
「だが、お前まで同じ道を歩く必要はない」
「……うん」
「自分の仕事を探してみろ」
マッテオは頷いた。
「ありがとう、父さん」
ピエトロは照れたように顔をそむけた。
「礼を言うようなことじゃない」
⸻
その夜、マッテオは眠れなかった。
台所からは、母が片づけをする小さな音が聞こえていた。
水の音。
皿を重ねる音。
炉の灰をならす音。
どれも、幼い頃から聞いてきた音だった。
マッテオは目を閉じた。
今日の豆の味を思い出した。
柔らかく、温かく、少しだけ油の香りがした。
いつもと同じ豆だった。
けれど、今日の豆は、何かが違っていた。
父が仕事を失った日。
母が最後の袋を開けた日。
そして、父が初めて、自分の人生を選べと言ってくれた日。
その日の食卓に、豆があった。
マッテオは、ふと思った。
料理の味というものは、食べたその日と一緒に、記憶に残るのかもしれない。
いつか遠くの町へ行っても。
この家を離れても。
母が作った豆の味を思い出せば、今日のことも思い出すのだろうか。
父の声も。
母の笑顔も。
炉の火の温かさも。
すべて、一緒に。
マッテオは静かに息を吐いた。
窓の外には、月が出ていた。
村は眠っていた。
明日になれば、また新しい一日が始まる。
けれど、今日という日は、もう二度と戻ってこない。
そのことを、マッテオはまだ知らなかった。
ただ、母の豆の味だけは、忘れたくないと思った。
――第五話・了




