後日談その一 天之冬衣がうるさい件
出雲が統一されてから、しばらくの月日が流れた。
かつて出雲の王であった天之冬衣は、須佐之男に臣従して以来、須賀の宮で内政を取り仕切る重臣となっていた。
長年にわたって国を治めてきただけあって、その手腕は確かなものである。田畑の管理から治水、交易、税の取り決めまで、次々と持ち込まれる問題を手際よく処理していた。
須佐之男にとっても、非常に頼りになる人物だった。
ただし、一つだけ問題があった。
とにかく、うるさいのである。
「須佐之男王、本日も協議を始めさせていただきますぞ」
「……またかよ」
須賀の宮の広間に、須佐之男のうんざりした声が響いた。
出雲の王になれば、もっと自由に暮らせるものだと思っていた。好きな時に狩りへ出かけ、海へ出て魚を釣り、何か問題が起これば自慢の金棒で解決する。そんな生活を想像していたのである。
ところが実際には、朝から晩まで政務の協議に付き合わされていた。
しかも、冬衣は一度話し始めると長い。
「まずは各地の田畑についてでございます。八岐大蛇の支配から解放された村々では復旧が進んでおりますが、今年の収穫はまだ十分とは申せませぬ」
「そうか。じゃあ今年は税を取らなきゃいいだろ!」
「では、宮に仕える者や兵の食糧はいかがなさいます?」
「他の村から持ってこい!」
「その村も収穫が少ないのでございます」
「だったら蓄えてある米を使えばいい!」
「来年の種籾まで使ってしまっては、次の収穫ができなくなりますぞ」
「……」
須佐之男は腕を組んだ。
「じゃあ、お前はどうしたいんだ?」
「被害の大きかった村は税を免じ、比較的余裕のある村からは少しずつ納めてもらうのがよろしいかと」
「それでいいじゃねえか! 最初からそう言えよ!」
「しかし、それぞれの村からどの程度納めてもらうか、王に決めていただく必要がございます」
「……まだ続くのか?」
「もちろんでございます」
冬衣は当然のように竹簡を広げた。
須佐之男は早くも帰りたくなっていた。
しかし、これはまだ最初の案件にすぎなかったのである。
「続いて、鉄の鍛冶場についてでございます」
「おお、鉄か!」
須佐之男は途端に元気を取り戻した。
「よし! 剣と槍をどんどん作れ! 出雲の兵をもっと強くするぞ!」
「お待ちください。鉄は農具にも必要でございます」
「だったら半分ずつ作ればいいだろ!」
「なぜ半分なのでしょう?」
「半分なら公平じゃねえか!」
「農具を必要とする村と武具を必要とする兵では、その数が違いますぞ」
「……だったら農具を多くしろ!」
「どの程度でございましょう?」
「多めだ! 多め!」
「それでは割合がわかりませぬ」
「七割だ! これでいいだろ!」
「では、残り三割でどれほど武具が作れるか、鍛冶職人に確かめねばなりませんな。それから木炭の確保についても……」
「だあああ! 細けえことばかり言いやがって!」
須佐之男は思わず頭を抱えた。
冬衣は少しも動じなかった。
「国を治めるとは、そういうものでございます」
「わかった! 少し考えさせろ!」
「承知しました。では、午後から協議を再開いたしましょう」
「おう!」
須佐之男は勢いよく立ち上がると、広間から出ていった。
そして、そのまま戻ってこなかった。
夕方になっても姿が見えないため、冬衣が家臣に行方を尋ねると、思いがけない返事が戻ってきた。
「須佐之男王でしたら、鷹狩りに出かけられました」
「……鷹狩り?」
「はい。先ほど、鷹を連れて山へ向かわれました」
冬衣はしばらく黙っていた。
「……まったく、困った王でございますな」
そう言って深いため息をついたが、翌日の協議に備えて竹簡を整理する手は止めなかった。
そして翌朝。
「須佐之男王、昨日の協議の続きをいたしますぞ」
「……お前、まだ覚えていたのかよ」
「当然でございます」
須佐之男は心底嫌そうな顔をした。
冬衣はそんなことなど気にも留めず、新しい案件を持ち出した。
「本日は港の整備についてでございます。交易を再開するにあたり、船が不足しておりましてな」
「船が足りねえなら造ればいいだろ!」
「では、交易船と軍船、どちらを優先なさいます?」
「両方だ!」
「船大工の数にも限りがございます」
「だったら船大工を増やせ!」
「育てるには時間がかかりますぞ」
「……」
「それに、漁船の修繕も滞っております」
「……」
「港の荷揚げ場も整えねばなりませんし、船に使う材木も確保する必要がございます」
「……なあ、冬衣」
「はい、何でございましょう?」
「最近、鯛が釣れるらしいな」
「……は?」
「俺、ちょっと漁師たちの様子を見てくるわ!」
「お待ちください、王! 漁師たちからの報告なら、こちらに……」
「現地を見るのが一番だろ! じゃあな!」
須佐之男は冬衣の返事を待たず、さっさと広間から出ていった。
その足で港へ向かうと、漁師の船に乗り込み、沖へと漕ぎ出してしまったのである。
「はははっ! やっぱり海はいいな! 竹簡なんぞ眺めるより、よっぽど楽しいぜ!」
須佐之男は上機嫌だった。
釣果も上々で、大きな鯛を何匹も釣り上げた。これなら櫛名も喜ぶだろうと、帰り道には鼻歌まで歌っていた。
ところが港に戻ってみると、岸に見覚えのある老人が立っていた。
「……げっ」
「お帰りなさいませ、須佐之男王」
冬衣である。
しかも、その手には竹簡が握られていた。
「漁師たちの様子はいかがでしたかな?」
「お、おう! なかなかよかったぜ! 見ろ、この鯛!」
「それは見事でございますな。では、港の整備について協議の続きをいたしましょう」
「……お前、ここまで追いかけてきたのか?」
「王がお戻りになるのをお待ちしておりました」
「……」
「それで、船大工の確保についてでございますが」
「せめて鯛を櫛名に届けてからにしてくれよぉ!」
無敵の須佐之男は、港でも冬衣に捕まってしまったのであった。
さらに翌日。
須佐之男は、またもや須賀の宮で竹簡を眺めていた。
今度は山間の村々から寄せられた、猪による農作物の被害についてである。
「王、山に近い村では猪が田畑を荒らしておりまして、何らかの対策が必要でございます」
「猪だと?」
須佐之男は目を輝かせた。
「なんだ、簡単じゃねえか! 猪なんぞ狩ってしまえばいい!」
「狩猟も必要でしょうが、山から新たな猪が下りてくることもございます。田畑の周囲に柵を設ける必要がありましょう」
「だったら柵を作れ!」
「そのための木材と人手は、どこから確保いたしましょう?」
「またそれかよ!」
「村によって被害も異なりますゆえ、どこから着手するかを……」
「もういい! 俺が猪を狩ってくる!」
「王、そういう問題では……」
「任せとけ! 俺の腕を見せてやる!」
須佐之男は勢いよく立ち上がると、今度は金棒を担いで山へ向かってしまった。
残された冬衣は、開いたままの竹簡を見つめていた。
「……どうして毎回、そうなるのでしょうな」
その日の夕方。
「おーい、冬衣! 見ろ!」
須佐之男が巨大な猪を担いで帰ってきた。
普通の男なら数人がかりでも持ち上げるのが難しいほどの大物である。
「はははっ! どうだ、すげえだろ!」
「おお、それは見事な猪でございますな」
「そうだろう! これで猪の件も片付いたな!」
「ところで王」
「ん?」
「他の村の猪は、どうなさるおつもりで?」
「……は?」
「出雲には山に近い村が数多くございます。一頭仕留めただけでは、被害は収まりませぬぞ」
「……」
「ですから、先ほどの柵の建設についてでございますが……」
「だあああ! お前、少しくらい褒めて終わりにできねえのかよ!」
「もちろん、お見事な働きでございます。しかし、それと政務は別でございます」
「くそっ! 正論ばかり言いやがって!」
須佐之男は猪を地面に降ろすと、その場に座り込んでしまった。
冬衣はそんな王を眺めながら、困ったように首を振った。
そして数日後。
須佐之男は、今度こそ協議から逃げずに済ませようと決心していた。
しかし、その日の案件はこれまで以上に厄介だった。
出雲を統一したことで、多くの村や豪族が須佐之男に従うようになった。そこで、各地の長にどこまで権限を与えるのかを決める必要があったのである。
「須佐之男王、こちらの村では隣の村との境を巡って争いが起きております。また、別の村では税の取り決めについて不満が出ておりまして……」
「……全部お前に任せる」
「は?」
「だから! 細けえことは全部お前に任せるって言ってるんだ!」
「それでは困りますぞ」
「なんでだよ! お前、元は出雲の王だったんだろ? 俺より詳しいじゃねえか!」
「確かに内政については経験がございます。しかし、今の出雲の王は須佐之男様でございましょう」
「だから、お前を重臣にしたんだろうが!」
「王が何も決められなくては、臣下も困るのでございます」
「……」
「私が勝手に何もかも決めてしまっては、王のお立場がなくなってしまいますぞ」
須佐之男は腕を組んで考え込んだ。
それは確かに困る。
せっかく出雲の王になったのに、何もかも冬衣が決めるのでは、どちらが王なのかわからなくなってしまう。
「……じゃあ、こうしようぜ」
「はい」
「普段の細けえ仕事はお前が決めろ。国全体に関わる大きなことは俺が決める! これでどうだ!」
冬衣は少し考えたあと、満足そうに頷いた。
「それがよろしいでしょうな」
「おお! やっと決まったか!」
須佐之男は嬉しそうに立ち上がった。
ところが、冬衣はまだ話を終えていなかった。
「では、どこまでを私の権限とするか、詳しく決めてまいりましょう」
「……は?」
「村同士の争いでも、土地に関わるものと水に関わるものでは事情が異なります。また、税の変更については……」
「ちょっと待て! 今、決まったばかりじゃねえか!」
「ですから、その取り決めの詳細を詰めるのでございます」
「……まだ続くのかよ」
「もちろんでございます」
冬衣は当然のように、新しい竹簡を広げた。
須佐之男は天井を仰いだ。
八岐大蛇を相手にした時でさえ、ここまで疲れた覚えはない。
金棒で叩けば倒れる敵の方が、よほどわかりやすかった。
しかし、冬衣を金棒で叩くわけにはいかない。
そもそも、冬衣の言うことは大抵正しいのである。
それが何より腹立たしかった。
ようやく協議が終わった頃には、すっかり日が傾いていた。
須佐之男は須賀の宮の縁に腰を下ろし、大きなため息をついた。
「はああああ……疲れたぜ……」
そこへ櫛名がやってきた。
「あら、須佐之男様。随分とお疲れのようですわね」
「おう、櫛名か……」
櫛名は夫の隣に腰を下ろし、飲み物を差し出した。
「今日も冬衣様と政務のお話でしたの?」
「ああ……あいつ、どうにかならねえのか?」
「まあ、どうしてです?」
「細けえことばかり言いやがるんだ! 俺が何か決めるたびに、あれはどうする、これはどうするって、うるせえのなんの!」
櫛名は思わず笑ってしまった。
「ふふっ。でも、それだけ真剣に出雲のことを考えてくださっているのでしょう?」
「そうなんだよ! あいつの言うことは大抵正しいんだ! だから余計に腹が立つ!」
「それなら、ちゃんとお話を聞いてあげてくださいね」
「お前まで冬衣の味方かよ……」
「私は須佐之男様の味方ですわ。でも、冬衣様も立派なお方ですもの」
「わかってるって……」
須佐之男は飲み物を一口飲み、肩を落とした。
「はあ……王も辛いぜ……」
櫛名はそんな夫を見て、楽しそうに微笑んだ。
八岐大蛇を倒し、出雲を統一した無敵の英雄も、今では毎日、政務に追われている。
けれど、須佐之男が冬衣を追い出そうとしないのは、その能力を誰よりも認めているからだった。
何だかんだと文句を言いながらも、二人はうまくやっているのである。
もっとも、須佐之男本人にその自覚があるかどうかは怪しかった。
そんな時、廊下の向こうから聞き慣れた声が響いた。
「須佐之男王! こちらにおられましたか!」
「……げっ!」
須佐之男は思わず身を起こした。
冬衣が竹簡を抱えて歩いてきたのである。
「明日の協議について、少しお話がございます!」
「まだあるのかよ!?」
「もちろんでございます。王にお決めいただきたいことが山ほど残っておりますゆえ」
「もう勘弁してくれぇぇぇ!」
須佐之男の悲鳴が、須賀の宮に響き渡った。
櫛名はとうとう我慢できなくなり、声を上げて笑い始めた。
こうして、出雲には今日も平穏な一日が過ぎていく。
八岐大蛇すら倒した無敵の須佐之男であったが、竹簡を抱えた天之冬衣には、どうにも勝てないのであった。




