十二話 追放された無敵な須佐之男は出雲の王になる!
八岐大蛇が討伐されて以来、出雲の様子は大きく変わり始めていた。
かつて賊が我が物顔で歩き回っていた道には、荷を背負った商人や農具を担ぐ民の姿が戻り、八岐大蛇に支配されていた港にも交易船が出入りするようになっていた。
鉄の鍛冶場では職人たちが再び槌を振るい、各地の村々では逃げ出していた人々が戻って荒れ果てた田畑を耕し始めている。
その中心となっていたのが、須賀の宮であった。
「須佐之男様ぁ! こちらもお納めください!」
「おお、ありがとな! ずいぶん立派な魚じゃねえか!」
「須佐之男様のおかげで、また漁に出られるようになりました!」
「そうか! そいつはよかったな!」
宮の前には朝から貢物を携えた民が集まり、須佐之男はその一人一人に豪快な笑みを向けていた。
誰もが八岐大蛇を倒した英雄に感謝しており、出雲各地から寄せられる支持は日を追うごとに大きくなっていた。
もっとも、本人は少々困ってもいた。
「おいおい、また米かよ! 昨日も山ほど届いたぞ!」
「須佐之男様、皆様のお気持ちですから、ありがたく頂戴いたしましょう」
隣に控えていた櫛名が、笑いをこらえながら答える。
「そりゃわかってるが、これじゃ倉がいくつあっても足りねえぞ!」
「でしたら、困っている村へ分けて差し上げればよろしいではありませんか」
「おお! そりゃいいな! よし、そうしよう!」
あっさり決めてしまう須佐之男に、櫛名は微笑んだ。
こうした日々が続く一方、出雲にはまだ解決していない問題が残されていた。
大名持、天之冬衣の存在である。
長年出雲の王として君臨してきた冬衣にとって、突然現れた筑紫の若者が王を名乗り、民衆から絶大な支持を集めている状況は、決して愉快なものではなかった。
須佐之男が八岐大蛇を討伐した功績は認めていたものの、それと王位を譲ることは別問題である。
しかも、現在の勢力は須佐之男が圧倒していた。
八岐大蛇から奪還した港や鍛冶場を押さえ、各地の村々や豪族までもが須佐之男の元に集まっている。
冬衣の影響力は以前にも増して小さくなっていたが、それでも代々受け継いできた王としての誇りだけは簡単に捨てられなかった。
那岐は幾度か冬衣の館を訪れて交渉を重ねていたが、王位を認めさせるまでには至っていなかった。
そんなある日、須賀の宮に戻ってきた那岐は、須佐之男と櫛名に交渉の結果を伝えていた。
「うーん、やっぱり難しいみたいだね。冬衣殿は、どうしても王位だけは譲れないそうだよ」
「まだそんなことを言ってんのか、あの爺さん!」
須佐之男は呆れたように腕を組んだ。
「もう出雲のほとんどは俺の領地だぞ。兵だってこっちの方が多いし、民も俺を王だと認めてくれている。今さら何を意地張ってんだ?」
「須佐之男様、冬衣様にもお立場がありますから……」
「そりゃわかるがよ。俺だって、いつまでも王が二人いるような状態は気持ち悪いぜ」
「ふふ、そうだね。でも冬衣殿からすれば、突然現れた余所者に国を取られるようなものだからね。簡単には納得できないと思うよ」
那岐は穏やかに答え、息子の顔を見上げた。
身長七尺という巨体に、並ぶ者のない怪力と妖力。かつてはその強さを誇示して騒動を起こしてばかりいた末息子が、今では一国の王として民から慕われている。
父親としては嬉しい変化だったが、だからこそ、せっかく取り戻した出雲の平穏を壊してほしくなかった。
「力で従わせるつもりなら、今すぐにでもできるんだろうけどね」
「まあな! 冬衣の兵くらいなら、俺一人でもどうにかなるぜ!」
「でも、それじゃあ八岐大蛇を倒した意味がなくなってしまうよ」
「……そうだな」
須佐之男も、そこは理解していた。
八岐大蛇を倒して救い出した民が、今度は自分たちの争いに巻き込まれるようでは、何のために出雲を平定したのかわからない。
「ちっ、面倒くせえなぁ。じゃあ、どうするんだ?」
「ちょっと姫に相談してみようと思うんだ」
「姉上に?」
「うん。こういうことは、私より姫の方が得意だからね」
「なるほどな! 姉上なら何か考えてくれるかもしれねえ!」
須佐之男は納得したように大きく頷いた。
「じゃあ父上、頼むぜ!」
「ふふ、任せて。すぐに話をしてくるよ」
那岐はそう告げると、一旦筑紫へ戻ることになった。
大倭壱国の中心、山門では、日巫女が父から出雲の状況を聞き、婚姻による解決を提案した。
天之冬衣に大倭壱国の姫を嫁がせ、出雲の旧王家との結び付きを強めるというのである。
ただし、日巫女には婚姻に適した年頃の娘がいなかったため、月読の娘である田心姫を養女に迎え、女王の娘として嫁がせることになった。
那岐はその足で壱岐を訪れ、月読にも話を伝えた。
ところが、月読はすぐには承諾しなかった。
「父上、田心姫はまだ幼いのですよ。いくら姉上のご意向とはいえ、あまりに急なお話ではありませんか」
「そうだね。私も急がなくていいと思っているよ」
「せめて数年、準備の期間をいただけませんか?」
「うん。姫にも伝えておくから、月読も田心姫とよく話し合ってね」
結局、婚姻まで三年間の猶予を設けることで話がまとまった。
那岐は再び出雲を訪れ、冬衣に婚姻同盟を提案した。
大倭壱国の女王の養女を妻として迎えられるという話に、冬衣もようやく態度を軟化させたものの、須佐之男への臣従については、なおも明言を避けていた。
一方、その報告を受けた須佐之男は、思わず声を上げていた。
「三年だぁぁ!? そんなに待つのかよ!」
「だから、月読の娘がまだ幼いんだってば。婚姻の準備も必要なんだからね」
「いや、そりゃわかるが、三年もあれば俺なら出雲を三回くらい平定できるぞ!」
「そんなに何度も平定しなくていいよ……」
那岐は困ったように笑った。
「今すぐ決着をつけなくても、須佐之男はもう王として出雲を治めているんでしょう?」
「おう、そりゃそうだが……」
「それなら、その間にもっと立派な国にすればいいじゃない。冬衣殿だって、須佐之男がちゃんと国を治められるとわかれば、安心できるかもしれないよ」
「なるほどな……」
須佐之男はしばらく考え込み、やがて大きく笑った。
「よし、わかった! 三年くらい待ってやる! その間に出雲をもっと立派にして、あの爺さんを驚かせてやるぜ!」
「ふふ、それなら安心だね」
「櫛名! そうと決まれば忙しくなるぞ!」
「はい! でも須佐之男様、まずは今日のお仕事を片付けてくださいね」
「お、おう……」
目の前に積み上げられた木簡を見て、須佐之男は途端に顔をしかめた。
那岐はそんな息子の様子を微笑ましく眺め、再び筑紫へと帰っていった。
それから三年が過ぎた。
この間、須佐之男は出雲各地を巡り、荒廃していた港や村々の復興を進めていた。
もっとも、本人が得意とするのは相変わらず力仕事であった。
「おらぁ! これでどうだ!」
大勢の男たちが力を合わせても動かなかった巨大な木材を、須佐之男が一人で持ち上げて運んでしまう。
「す、すげえ……」
「さすが須佐之男様だ!」
「こんなもの朝飯前よ! 次を持ってこい!」
港の整備に出れば船大工たちを驚かせ、鍛冶場に顔を出せば職人から特注の金棒について相談される。
かつて八岐大蛇に従っていた者たちの中にも、武器を捨てて仕事に戻る者が増えていた。
そして何より、民が安心して暮らせるようになったことが須佐之男には嬉しかった。
以前は須佐之男の巨体を見るだけで怯えていた子供たちも、今ではその姿を見つけると駆け寄ってくる。
「王様ぁ! また大きな石を持ち上げて見せて!」
「おう! 見てろよ!」
「須佐之男様! 子供たちを喜ばせるのは結構ですが、そろそろお仕事に戻ってください!」
遠くから櫛名の声が飛んでくると、須佐之男は苦笑いを浮かべた。
「おっと、見つかっちまったか」
「王様、怒られてる!」
「うるせえ! 王様だって怒られることくらいあるんだよ!」
子供たちの笑い声が響き、須佐之男もつられて笑った。
そんな日々が続くうちに、須賀の宮を中心とした出雲の勢力はますます大きくなり、かつて八岐大蛇の暴政によって荒れ果てていた土地にも活気が戻ってきた。
そして三年目のある日、ついに待ち望んでいた船団が出雲へやって来た。
「須佐之男様! 港に大きな船団が近づいております!」
「おお、来たか!」
報告を受けた須佐之男は、すぐに櫛名を伴って港へ向かった。
沖合から姿を現したのは、壱岐の船三隻と山門壱国の船三隻、合わせて六隻の船団であった。
壱岐側の護衛兵百名、山門壱国側の護衛兵百名、総勢二百名もの兵を伴う堂々たる一団であり、港に集まった民たちもその光景に目を奪われていた。
船団を率いていたのは月読である。
やがて船が着岸すると、月読が田心姫を伴って姿を現した。
「兄上ぇぇ! 久しぶりだな!」
「須佐之男……相変わらず声が大きいですね」
月読は呆れたように答えたが、その表情には久しぶりに弟と再会した喜びが浮かんでいた。
「ははは! 出雲の王になったんだからな! 声くらい大きくないと格好がつかねえだろ!」
「王になったからといって、声を張り上げる必要はないと思いますが……」
「細かいことを言うなって! それより、よく来てくれたな!」
須佐之男は嬉しそうに月読の肩を抱こうとしたが、月読はすかさず身を引いた。
「やめなさい。あなたの力加減で肩を叩かれたら、普通の者なら骨が折れますよ」
「兄上なら平気だろ!」
「平気かどうかの問題ではありません」
「相変わらず堅苦しいなぁ!」
二人のやり取りを聞いていた櫛名は、思わず笑みを浮かべた。
「初めまして、月読様。須佐之男の妻、櫛名と申します」
「これはご丁寧に。月読です。愚弟がいつもお世話になっているようですね」
「いえ、とんでもございません」
「おい、兄上! 愚弟はねえだろ!」
「末盧国で騒動を起こし、追放された挙げ句に出雲で王を名乗り始めた弟を、ほかにどう呼べばよいのですか?」
「ぐっ……!」
須佐之男が言葉に詰まると、月読は楽しそうに笑った。
「ですが、あなたがここまで立派になるとは思っていませんでしたよ。出雲が随分と賑わっているではありませんか」
「お、おう! まあな!」
褒められると思っていなかった須佐之男は、少し照れながら胸を張った。
そこへ田心姫が進み出て、丁寧に頭を下げた。
「須佐之男叔父様、お久しぶりです」
「おお、田心姫か! すっかり大きくなったなぁ!」
「ありがとうございます」
「昔はあんなに小さかったのにな! 沖ノ島で舞を披露していた頃が懐かしいぜ!」
「叔父様、あまり昔のお話をなさらないでくださいませ」
恥ずかしそうに微笑む田心姫に、須佐之男は豪快に笑った。
月読はそんな二人を眺めながら、静かに息をついた。
娘を遠い出雲へ嫁がせることに、父親として思うところは少なくなかった。しかし、この三年間で田心姫も婚姻に向けた準備を進めており、月読自身もようやく覚悟を決めていた。
「それで父上はどうした? 一緒じゃねえのか?」
「父上なら、すでにこちらへ向かわれていますよ。私たちより少し早く発たれましたから」
「そうか! なら、すぐに会えそうだな!」
月読たちを迎えた須佐之男は、久しぶりの家族との再会を喜び、須賀の宮でもてなすことにした。
やがて那岐も合流し、田心姫と天之冬衣の婚姻に向けた最後の準備が整えられた。
婚姻の儀は冬衣の館で執り行われた。
大倭壱国の女王日巫女の養女となった田心姫を、出雲の大名持である天之冬衣が妻として迎える。これにより、大倭壱国と出雲王国との間には正式な婚姻同盟が成立したのである。
その日の宴では、那岐と月読が冬衣に大倭壱国との協力を改めて求めた。
大倭壱国はいずれ倭の諸国を一つにまとめることを目指しており、出雲にもその壮大な事業に加わってほしいというのである。
冬衣にとって、婚姻によって王家の面目を立ててもらえたことは大きかった。しかも、那岐たちは出雲を一方的に従わせるのではなく、共に歩むことを望んでいた。
「冬衣殿、これからは一緒に倭を豊かにしていけたら嬉しいな。須佐之男は少し乱暴なところもあるけど、出雲の民を大切に思っているんだよ」
那岐が柔らかく微笑むと、月読も静かに頷いた。
「弟は細かな政務には向いておりません。冬衣殿のお力をお借りできれば、出雲もさらに発展することでしょう」
冬衣はしばらく二人を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「……なるほどな。そこまで儂を立ててくれたのだ。これ以上、意地を張り続けるのも大人げないか」
その言葉に、那岐は嬉しそうに微笑んだ。
こうして長く続いた王位を巡る対立も、ようやく終わりを迎えることになった。
数日後、須賀の宮に天之冬衣がやって来た。
「須佐之男様! 天之冬衣様がお見えになりました!」
「おお、来たか!」
須佐之男は待ち構えていたように立ち上がった。
隣には櫛名が控えており、宮の広間には須佐之男に仕える者たちも集まっていた。
やがて冬衣が家臣を伴って姿を現す。
「久しぶりだな、冬衣殿! 婚姻は無事に済んだんだろ?」
「うむ。おかげさまでな」
「そいつはよかった! 田心姫は兄上の大事な娘だからな。大切にしてやってくれよ!」
「もちろん、そのつもりだ」
冬衣は穏やかに答えたが、その表情はいつになく真剣であった。
「須佐之男殿、本日は大事な話があって参った」
「なんだ? 改まって」
冬衣はゆっくりと広間の中央まで進み出ると、須佐之男の前で膝を折り、深く頭を下げた。
「出雲の大名持、天之冬衣。これより須佐之男王にお仕えいたす」
その瞬間、広間が静まり返った。
これまで出雲の王として君臨してきた天之冬衣が、自ら須佐之男に臣従を申し出たのである。
須佐之男は一瞬、驚いたように目を見開いた。
だが、すぐに破顔した。
「おお! ようやく認めてくれたか!」
「出雲の民が誰を王として望んでいるのか、儂にもわかっておる。それに、この三年間でそなたが国を立て直してきたことも見てきた。もはや儂が意地を張る理由もあるまい」
「ははは! そうか、そうか!」
須佐之男は大いに喜び、勢いよく冬衣の前まで歩み寄った。
「よし! ならば立ってくれ!」
「む?」
「そんなところに座ってないで立てって! 冬衣殿には、これからも働いてもらわねえと困るんだ!」
冬衣は顔を上げ、意外そうに須佐之男を見つめた。
「……儂を重臣として迎えるつもりか?」
「当然だろ! あんたは長年この国を治めてきたんだ。俺より出雲のことを知っているに決まってる!」
「しかし、儂は今までそなたの王位を認めようとしなかったのだぞ?」
「そんなことはもうどうでもいい! 俺は戦なら誰にも負けねえが、細かい政治は苦手なんだよ! だから冬衣殿にも手伝ってもらいたいんだ!」
あまりにも率直な言葉に、冬衣は呆気に取られた。
そして、ついに笑い出した。
「はっはっは! なんとも豪快な御仁よ! 儂が三年も悩んでいたことが馬鹿らしくなってくるわ!」
「ははは! そうだろ! 難しく考えることなんかねえんだ! これからは一緒に出雲を治めりゃいいじゃねえか!」
「……承知いたした。これより我が力、須佐之男王のため、そして出雲のために尽くそう」
「おう! 頼りにしてるぜ!」
須佐之男は冬衣の手を取って立ち上がらせると、嬉しさのあまり、その肩を勢いよく叩いた。
「ぐおっ!?」
「おっと!」
冬衣が思わずよろめく。
「須佐之男様! もう少し手加減なさってください!」
櫛名が慌てて声を上げると、須佐之男は頭をかいて笑った。
「わ、悪い悪い! つい嬉しくてな!」
「まったく……そなたの怪力は噂以上だな」
「ははは! まあ、これから長い付き合いになるんだ! よろしく頼むぜ!」
冬衣も笑みを浮かべ、改めて深く頷いた。
二人は互いに協力し、末永く出雲を守っていくことを約束した。
こうして、長らく並び立っていた二人の王の問題は解消され、出雲王国はついに一つにまとまったのである。
その知らせは瞬く間に出雲各地へ広まった。
須佐之男が八岐大蛇を討伐して以来、民衆は彼を英雄として慕っていたが、旧王である冬衣までもが臣従したことで、その王位は名実共に揺るぎないものとなった。
須賀の宮には再び大勢の民が集まり、歓喜の声が響き渡った。
「須佐之男様ぁぁ!」
「出雲の王様万歳!」
「これで出雲は一つになったぞ!」
「須佐之男様! ありがとうございます!」
宮の前に姿を現した須佐之男は、集まった民を見渡して満足そうに笑った。
「おお! みんな、聞いてくれ!」
七尺の巨体から発せられる大声が、広場いっぱいに響き渡る。
「今日から出雲は一つの国になった! もう八岐大蛇みたいな連中に好き勝手させねえ! 俺がいる限り、この国は俺が守ってやる!」
その言葉に民衆から歓声が上がった。
「おおおおお!」
「須佐之男王万歳!」
「我らの王に栄光あれ!」
「ははは! 任せておけ! これからもっと立派な国にしてやるぜ!」
須佐之男は両腕を広げて声援に応えた。
その姿を少し離れた場所から見守っていた那岐は、穏やかな笑みを浮かべていた。
出雲にやって来たばかりの頃、須佐之男は何でも力任せに解決しようとしていた。それが今では、多くの民に慕われ、旧王からも認められる存在になっている。
もちろん、豪快で自信過剰なところは何も変わっていない。
それでも、自分の力を何のために使うべきか、少しずつ理解するようになったのだろう。
「ふふ、本当に立派になったね」
那岐は小さく呟いた。
出雲の統一を見届けた那岐は、やがて筑紫へ帰ることを決めた。
出航の日、港には須佐之男と櫛名が見送りに訪れていた。
「父上、もう帰っちまうのか?」
「うん。出雲も落ち着いたし、姫にも報告しないといけないからね」
「もう少しゆっくりしていけばいいじゃねえか! せっかく酒だってたっぷり用意したのによ!」
「ふふ、ありがとう。でも、もう私がいなくても大丈夫でしょう?」
那岐は須佐之男を見上げて微笑んだ。
「冬衣殿も力を貸してくれるし、櫛名だっている。これからは二人で頑張ってね」
「おう! 任せてくれ!」
須佐之男は力強く頷いた。
「しかし父上には世話になったなぁ。出雲に来た時から、何から何まで助けてもらっちまった」
「そんなことないよ。八岐大蛇を倒して、ここまで国を立派にしたのは須佐之男なんだから」
「へへっ、そう言われると照れるぜ!」
那岐は笑いながら、ふと思い出したように付け加えた。
「それと、もう末盧国みたいな騒動は起こさないでね。今度は出雲の王なんだから」
「うっ……わ、わかってるって!」
「姫も心配していると思うから、ちゃんと元気な姿を見せに帰っておいで」
「おう! 姉上にもよろしく伝えてくれ!」
「うん、伝えておくね」
那岐は続いて櫛名に顔を向けた。
「櫛名、須佐之男のことをよろしくね」
「はい、那岐様。お任せください」
櫛名は丁寧に頭を下げた。
「那岐様には本当にお世話になりました。おかげで出雲も、こんなに平和になりました」
「ふふ、私は少し手伝っただけだよ。それに櫛名がいてくれたから、須佐之男もここまで頑張れたんじゃないかな」
「まあ……」
櫛名が頬を染めると、須佐之男は照れくさそうに笑った。
「おいおい、父上! 俺だってちゃんと頑張ったんだぞ!」
「うんうん、わかってるよ」
「なんだよ、その子供扱いは!」
「私から見れば、いつまでも可愛い末っ子だからね」
「もう王様なんだけどなぁ……」
不満そうに口を尖らせる須佐之男を見て、那岐と櫛名は顔を見合わせて笑った。
やがて出航の準備が整うと、那岐は二人に別れを告げて船へ乗り込んだ。
「それじゃあ、行ってくるね」
「おう! 父上も元気でな!」
「お気をつけてお帰りくださいませ!」
岸から離れていく船に向かい、須佐之男はいつまでも大きく手を振っていた。
那岐も船上から手を振り返し、やがてその姿は海の向こうへと遠ざかっていった。
須佐之男はしばらく海を眺めていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……行っちまったな」
「そうですわね」
「父上には本当に世話になったぜ。俺一人だったら、冬衣の爺さんと喧嘩になってたかもしれねえ」
「ふふ、そうかもしれませんね」
「まあ、でもこれで全部片付いた! 帰るか、櫛名!」
「はい!」
二人は並んで須賀の宮へと戻っていった。
夕暮れが近づく頃、須賀の宮の高台からは、穏やかな出雲の景色が一望できた。
遠くには青々とした山々が連なり、その麓には田畑や村々が広がっている。港からは船が戻り、宮へと続く道には仕事を終えた人々の姿が見えていた。
かつて八岐大蛇に荒らされていた土地とは思えないほど、平和な光景であった。
須佐之男はその景色を眺めながら、満足そうに腕を組んだ。
「やっと本当の出雲の王になった気分だぜ」
隣に立つ櫛名が微笑んだ。
「そうですわね。今までは形式上、二人の王がいたようなものでしたから」
「しかし三年は長かったなぁ! 俺たちの方が圧倒的に強かったんだ。その気になれば、あっという間に全部支配できたのによ!」
「ふふ、そこは那岐様らしいお考えでしたわね」
「ん?」
「昔から出雲を治めてきた方々も、同じ出雲の民なのです。無理やり従わせるより、皆が納得して一緒になれる方がよろしいではありませんか」
「まあ、そうだな。せっかく平和になったんだし、また戦するのも馬鹿らしいしな」
須佐之男は頭をかきながら笑った。
「それに冬衣殿も、話してみりゃ悪い爺さんじゃねえしな。これからは頼りにさせてもらうぜ」
「はい。よい方を重臣に迎えられましたね」
「おう! しかし、これからは王として政治もしなくちゃいけねえなぁ……」
途端に須佐之男の声から勢いが消えた。
櫛名は不思議そうに首を傾げる。
「あら、どうなさいました? 急に歯切れが悪くなりましたわね」
「いやなぁ……俺は細かいことが苦手なんだよ。兵を率いて戦うんなら得意なんだが、木簡に書かれた数字を数えたり、村同士の揉め事を聞いたりするのはどうにもなぁ……」
「まあ、王様のお仕事ですもの。仕方ありませんわ」
「やっぱりそうだよなぁ……」
珍しく肩を落とす夫を見て、櫛名は楽しそうに笑った。
「でしたら、冬衣様やほかの方々に相談なさればよろしいではありませんか」
「ん?」
「何もかも須佐之男様お一人で決める必要はありませんわ。皆の意見を聞いて、よいと思ったものを取り入れていけばよろしいのです」
「なるほどな……」
須佐之男はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく頷いた。
「おう! そいつはいい! 俺一人で全部できるわけじゃねえしな! 皆の声を聞く王にもなってやるぜ!」
「まあ、頼もしいお言葉ですこと」
櫛名は嬉しそうに微笑んだ。
「それに、俺には櫛名もいるしな!」
「はい?」
「お前も遠慮なく言ってくれよ! 俺が間違ったことをしたら、ちゃんと叱ってくれていいからな!」
「ふふ、よろしいのですか?」
「おう! ただし、あんまり怒鳴らないでくれよ! 姉上だけでも十分怖えんだから!」
「まあ! それでは日巫女様に負けないくらい、しっかりお叱りしなくてはいけませんわね」
「お、おい! それは勘弁してくれ!」
二人の笑い声が、夕暮れの須賀の宮に響いた。
須佐之男は改めて出雲の大地へ目を向けた。
思えば、筑紫を追放された時には、まさかこんなことになるとは想像もしていなかった。
末盧国で騒動を起こし、姉の日巫女から叱責され、父と共に海賊調査へ向かわされた。それが出雲で櫛名と出会い、八岐大蛇を倒し、気がつけば一国の王になっていたのである。
そして今では、自分を慕ってくれる大勢の民がいて、頼りになる家臣たちがいて、何より愛する妻が隣にいる。
これほど満ち足りた気分になったことが、今までにあっただろうか。
「……なあ、櫛名」
「はい、なんでしょう?」
「俺は、この国をもっと大きくしてやりたいんだ」
櫛名は夫の横顔を見上げた。
「出雲だけじゃねえ。もっと遠くの国とも交易して、鉄もたくさん作って、誰にも負けねえ立派な国にしてやる!」
「はい」
「民が腹いっぱい飯を食えて、安心して暮らせる国だ! 八岐大蛇みたいな奴らが二度と出てこねえように、俺が守ってやる!」
その言葉には、かつて自分の強さを誇示するために拳を振るっていた頃とは違う、確かな決意が込められていた。
櫛名はそんな夫を頼もしく感じ、心からの笑みを向けた。
「はい。私も須佐之男様と共に、この出雲を守っていきます」
「おう! 頼りにしてるぜ、櫛名!」
須佐之男は豪快に笑うと、大きく両腕を広げた。
「よぉぉし! これからが俺の時代だ! 出雲をもっともっと立派にしてやるぜぇぇ!」
七尺の巨体から発せられた声が、須賀の宮から出雲の大地へ響き渡った。
櫛名はそんな夫の姿を見つめ、幸せそうに笑った。
「ふふ、本当に頼もしい王様ですこと」
かつて、圧倒的な強さゆえに騒動を起こし、故郷を追放された一人の男がいた。
その男は遠い出雲の地で愛する女性と出会い、八岐大蛇を討ち倒し、民衆から英雄として慕われ、ついには一国を治める王となった。
そして、その豪快な笑い声は、新しい時代を迎えた出雲の空にいつまでも響いていた。
こうして、追放された無敵な須佐之男は、出雲の王となったのである。




