7月3日『海よりの使者』
金曜日の午後。
扉の前で、誰かが立ち止まっている。押すのか引くのか、迷っているらしい。指先が扉の木に触れた瞬間、吸盤が張り付いてしまい、慌てたように手を引いた。
ようやく扉が開く。深緑の、海藻のような髪。首筋にうっすらと鰓のような器官。青白い肌。
「知人の……代わりに。……返却を」
声がとても小さい。差し出された本に見覚えがあった。あの『海の旅人』が借りていった一冊だ。返却の印をつける。
「確かにお受けしました。お名前を伺えますか」
「……リヒト、と。呼ばれています」
用事は終わったはずだが、リヒトはまだ館内にいた。棚のほうへ歩いて、指先が木に触れる。吸盤が張り付く。離そうとして、また張り付く。
なるほど。乾いた空気、紙の匂い、木の年輪。水の外で初めて触れるものばかりなのだろう。指が離せなくなっている――そう思った。
だがリヒトの吸盤は棚から棚へ渡りながら、書架の奥へと進んでいく。触れて、離して、また触れる。迷っているのではない。これは――確かめている。
私が声をかけようとしたとき、入口から聞き慣れない音がした。
カチ、カチ。金属と革の、規則正しいリズム。
「おねえちゃん!」
トビアスの声。だが足音が、いつもの松葉杖のきゅっという音ではない。革と薄い鋼板に覆われた、ブーツのかたちをした装具だ。右足首のあたりに小さな歯車が覗き、一歩ごとにカチ、カチと刻んでいる。
エルザが半歩うしろからついてくる。額にうっすらと汗。
「今朝、診療所で提供を受けたんです。先生には『まず平地で練習を』と言われたんですけど……本人がどうしても来たいというもので」
私はトビアスの足元を見た。鋼板の縁に沿った細い刻線。この手癖、どこかで……。
だが、もっと気になるものがあった。歯車のリズムだ。トビアスが笑うと間隔が短くなり、足を止めると音が硬く詰まる。持ち主の意志で拍を変える。これは――魔道具だ。それも極めて精巧な代物。誰がこれほどの品を……。
「おねえちゃん、これね、カチカチいうの」
トビアスが右足を見せる。大きな黒い瞳がぱちぱちと瞬いて、それから本棚のほうを見た。
「手、くっついてる」
リヒトが棚板に指をつけたまま止まっている。視線に気づいて手を離し、ぺこりと頭が下がる。
「それ、さわっていい?」
「これ、トビアス」とエルザが止めかけたが、リヒトは小さく手を差し出した。
トビアスの指が吸盤に触れる。
「ぺたってする。――へんだね」
手が引っ込みかける。
「でもね。ぼくも足へんだよ。カチカチいうし」
にっと笑った。リヒトの首筋で、鰓がわずかに開いた。
トビアスが階段を見上げた。
「ねえ。二階って何があるの?」
松葉杖ではこの階段を上れない。これまでトビアスの図書館は、一階だけだ。
「二階にも閲覧室があります。地図帳や大きな本が」
「行きたい。……一緒にいこ?」
一緒に。リヒトの目がわずかに見開かれた。
トビアスの右足の歯車がカチ、と一つ強く噛んだ。「上りたい」が、足に伝わった音だった。
◇
一段目に右足をかける。歯車がゆっくり回り、カチ。
左足を引き上げる。二段目。カチ。
静かな図書館に、時計のような音だけが響いている。
リヒトが隣にいる。手すりに吸盤を当てている。
「……この手すり。……とても古いです」
「わかるの?」
「はい……百年より。……もっと」
「ひゃくねん!」
前に進むにはまずバランスを崩さなければならない。トビアスの体が小さく揺れながら、次の段を踏んだ。
四段目。五段目。六段目。
「ねえ。こわいとき、ぼくは上見るんだ」
「……」
リヒトが小さな声で言った。
「階段は……初めてです。……建物の中は」
「海に階段ないの?」
「……」
「じゃあ、ぼくのほうが先輩だね」
首を傾げて、にっと笑う。歯車の刻みが一つ弾んだ。
踊り場でトビアスが振り返った。
「お母さーん、ここまで来たよ!」
エルザが手を振った。
◇
二階。
トビアスの足が止まった。書架が一階より高く、窓が一回り大きい。
「……ひろいね」
書架の間をカチカチと歩いていく。大きな地図帳を見つけて、棚から引き出した。重い。膝に乗らない。
リヒトが隣にしゃがんで、一緒に支えた。掌の吸盤がページに貼りついた。
「すみません……紙は。……苦手で」
「ぺたってした」
トビアスが笑う。リヒトの鰓がかすかに動いて、それは笑っているのだと、このときようやく気づいた。
一人で来たはずが、子供の隣で地図帳を支えている。帰る隙を、とうに逃している。
エルザが追いつき、三人で地図帳を囲んだ。閲覧室の席で、七月の陽が長く差している。
◇
閉館間際。
階段を降りる音。上りの時よりずっと速い。カチ、カチ、カチ。もう怖くない。
階段の途中から、声が聞こえた。
「ねえ。またくる?」
「……わかりません」
「またきてね」
トビアスがエルザと一緒に出ていった。遠ざかっていく歯車の音。
人生の節目となる瞬間は、自分ではそれと分からない。この二人にとっての『それ』がこの一段目だったのかもしれない。
◇
静かになった館内で、リヒトがカウンターの前に立った。衣の内側から小さなものを取り出して、カウンターに、ことり、と置く。
貝殻だった。薄桃色の巻貝。――金曜日に貝殻を置いていくのは、あの常連の方だけのはずだ。
「……おわかりになると……思います」
それだけ言って、出ていった。扉の木に吸盤が一瞬張り付いて、離れた。リヒトという名前は、貸出記録のどこにも残らなかった。
貝殻の内側に、聖秘術教会の星形の紋章。
思い出の向こうに浮かぶ彼女の横顔。表情はもう、思い出せない。




