7月4日『迷わないピース』
坂道を上るとき、いつもおばあちゃんの右手を取る。
七月の朝。日差しは高くて、石畳がもう乾いている。おばあちゃんの指先はひんやりとして、握るとかすかに震えていた。
わたしの手は、今日も温かい。ティナに話したら「冬に便利じゃん」と笑われた。便利かな。
「ミーア、今日はどこに行くの」
「図書館だよ」
「あら、いいわね」
毎週おなじ言葉を、毎週うれしそうに言う。
◇
いつもの窓際の席。午後の光がテーブルを斜めに横切っている。
小箱を開けて、三十の断片を広げた。雑貨屋で買ったばらばらの色のジグソーパズル。まだ何の絵にもなっていない。
おばあちゃんが、すぐに手を伸ばした。
一つ取って、裏返し、光に透かすように見つめてから、テーブルに置く。
黄色。隣に橙。またその隣に黄色。形ではなく、色で選んでいる。
「この黄色はお花ね」
「うん、花畑の絵だよ」
「橙もあるわ。きれいねえ」
おばあちゃんの指は迷わない。黄色、橙、赤。花の色を一つずつ集めていく。まるで花摘みみたいに。
ふいに、一つのピースで手が止まった。花畑の橙に似ているけれど、すこしだけ茶色がかっている。
おばあちゃんはそれを、白い壁の家が見えかけた辺りに、静かに置いた。
「おばあちゃん、それ、周りの色とちょっと違わない?」
わたしの手を軽く押さえて、首を振った。
「ここなの」
静かな、でも迷いのない声だった。
わたしが触ったピースが、ほのかに温まっている。おばあちゃんがそれを拾い上げて、指先で包むように持った。
「あったかいわねえ」
「日向に置いてたからかな」
おばあちゃんは「そうねえ」と頷いて、にっこり笑った。
◇
おばあちゃんが青いピースを並べている間、わたしはふと顔を上げた。
隅に、大きな体の青年がいる。教本を膝に広げて、太い指で文字を一つずつなぞっている。唇がかすかに動いている。声にはなっていない。
おばあちゃんが色を拾うように、あの人は文字を指先で集めている。一つずつ。ゆっくりと時間をかけて。
「ミーア、この青いの」
おばあちゃんの声で、手元に戻る。
空のピース。青と白の境目がにじんだ、きれいな色だ。
◇
パズルの半分が埋まった。
黄色い花畑の上に青い空が広がりはじめて、真ん中に白い壁と赤い屋根の小さな家が浮かび上がってきた。
おばあちゃんの手が止まる。赤い屋根のピースを持ったまま、絵をじっと見ている。
「……このお家、知ってるわ」
「え?」
「昔ね、丘の上に、こういうお家があったのよ」
パズルの絵ではなく、もっと遠いものを見つめる目になっていた。
「花がたくさん咲いていてね。よくあの子と歩いたの」
あの子。
「あの子、手があったかくてねえ。繋いだ手がぽかぽかするの」
「……お父さん」
「いつも、花の種類を教えてくれたのよ。あれは、何の花だったかしらね――」
◇
顔を上げると、窓際の向かい側。男の人が小さな男の子に本を読んでいるのが見えた。
男の子が声を立てて笑う。ページを押さえるお父さんの手が大きい。午後の光が、二人の輪郭をやわらかく滲ませている。
おばあちゃんがテーブルを軽く叩いた。
「ミーア、これ」
ピースを一つ差し出している。視線が戻る。
◇
おばあちゃんはもう、さっきの話を覚えていない。波は静かに引いていた。
「ミーア、この緑はどこかしらね」
「丘だよ、おばあちゃん。ここ」
ピースを渡すたびに、おばあちゃんがわたしの指先にそっと触れる。
「あったかいわねえ」
顔を上げると。カウンターの近くで、鱗のある手の女の人が図録をめくっていた。
銀色にひかる指先。ひんやりしていそうな手。けれどページを送るその指は、とてもしずかで、やさしかった。
冷たい手でも、あんなふうに触れられるのなら。温かい手にだって、届けられるものが、きっとある。
残り、一つ。
◇
最後のピース。赤い屋根のいちばん端。指がゆっくりと動いて、ぱちん、と小さな音を立てて嵌まった。
三十の断片が、一枚の景色になった。
黄色い花畑。橙から赤へゆるやかに移りかわる色。丘の緑。空の青。白い壁と赤い屋根の小さな家。
そのとき、気づいた。
さっきおばあちゃんが「ここよ」と迷わず置いたピース。花畑のなかで色が浮いて見えていた、あのピース。間違いなんかじゃなかった。
花に半分隠れて、橙色に溶けかけた、花畑の中の小さな人影。
おばあちゃんが、完成した絵をじっと見つめている。花の色しか見てなかったわたしに見えなかったものが、おばあちゃんにはずっと見えていた。
「きれいだね、おばあちゃん」
おばあちゃんの手を握った。
ひんやりしていた指が、すこしだけ温まっていくのを感じる。
しばらく二人で絵を眺めていた。
◇
おばあちゃんが、ふと空のピースを外して箱に入れはじめた。
もう忘れている。きれいだったことも――この子のことも。わたしは最後に、あの人影のピースに指先で触れてから、箱に戻した。
おばあちゃんはきっと忘れてしまう。でも、次もまた「ここよ」と言うのだろう。
花畑の中のあの子のそばに、迷わずピースを置くのだろう。




