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7月2日『朝が来たなら』

挿絵(By みてみん)

 参考資料室の奥から三番目。二ヶ月ぶりの、僕の席。


 鞄から十四人分の書き起こしを出す。冒険者、元冒険者、その家族。


 飯のことしか言わない人、やたら地名に詳しい人、何も覚えてないと笑いながら傷跡を撫でていた人。紙に起こすと、どれも同じくらいの厚さになる。声の大きさも、人生の重さも、紙の上では等しく思える。


 並べ替えて、崩す。碁盤に石を置くように一枚ずつ動かして、すぐに「待った」をかけて引き戻す。十四人がいっぺんに喋ってる。どこから始めればいいか、まだわからない。


 ただ、不思議と焦りはなかった。二ヶ月前にこの席で思いついた一文がまだ手元にある。


 『泥の道、冷めた飯、眠る――それでもまた、朝が来る』。


 あの日も書けなくて、でもあの一行だけは指が勝手に動いた。今日もそういう一行が見つかるかもしれない。見つからないかもしれない。


           ◇


 窓の外から槌音。隣の鍛冶場だ。長い耳が音の輪郭を拾ってしまう。鉄の厚さ、打ち手の体格、槌の振り幅まで。余計なことばかりよく聞こえて、原稿の声だけが聞こえてこない。でもこの音はいい。催促をしてこない。


 席を立って書架をさまよう。指先が背表紙に触れるたび、本の気配が微かに滲む。


 誰かの手垢の積もった本ほど温かく、何度も開かれたページには、読んだ人の感情がうっすら見える。驚きや安堵や退屈が、乾いた染みのように。触れたものに残る心の痕を、この指は勝手に読んでしまう。ただし目のほうは頼りない。細かい文字には顔を寄せないと追いつけない。


 本はどれも立派で、立派すぎてなんの手本にもならなかった。


 ふと、薄い冊子の背に指が引っかかる。『南方見聞録』。開いたページに、こうあった。


 『砂漠が美しいのは、どこかにオアシスが隠されているから』。


 オアシス。乾いた場所で水を撒き続けるような仕事をしている僕には、少しだけ沁みる一行だった。


 席に戻り、書き起こしを読み返していて気づく。


 僕はいつの間にか「物語になりそうな箇所」にだけアンダーラインを引いている。危機一髪の場面、師匠との別れ、仲間を失った夜。頭の中に検閲官がいて、「使えない日常」を勝手に不合格にしている。


 十四人のうちの一人を思い出す。元冒険者の老人。


 『主人公は別にいる。俺は荷物を持って後ろを歩いていただけだ』。あのとき僕は「そんなことないですよ」と言えなかった。嘘になるからではない。あの人が自分をそう語ることが、潔くて、まっすぐで、眩しかったからだ。


 あの声をこの耳はまだ覚えている。書けないのは、あの声をどう扱えばいいかわからないからだ。物語の枠に入れようとすると、あの高潔さが壊れてしまう気がするから。


           ◇


「一つ、お見せしたいものがあります」


 司書がカウンターの奥から持ってきたのは、綴じ紐で束ねられた紙片の束だった。手書きの分類票が貼り付けられている。


 『未明の冒険譚』。ある冒険者が毎年一通ずつ手紙を送り、別の誰かがその手紙を物語に仕立て直して、この図書館に毎年届けていたのだという。二十年間、一度も途切れず。冒険者も著者も名前がなく、手紙の原本もない。あるのはこの二十章分の紙束だけ。


 ――二十年。


 長い時を生きる種族に生まれると、その数字の重さがかえってわからなくなる。


 でも、この本を書いた人にとっては、たぶん人生の半分以上のはずだった。この薄い束に、誰かの半生が折り畳まれているのだ。


 第二章。川沿いの村で消えた渡し守を探す話。ただし冒険者が見つけたのは渡し守ではなく、渡し守が三十年かけて石に刻んでいた水位の記録だった。


 第四章。廃墟の塔で古い文書を探す。見つけたのは文書ではなく、塔の壁に刻まれた子供の背丈の記録。


 第七章。盗賊を追う。追いついたとき盗賊はもう死んでいて、遺品に家族に宛てた手紙が一通。


 この冒険者は毎回、探していたものと違うものを見つけている。


 そして著者は、そのずれを直していなかった。矛盾も脱線もそのまま残し、ただ順番を整えて章の切れ目を入れているだけだ。馬鹿みたいに単純な方法。声を枠に押し込むのではなくて、声の形に合わせて枠のほうを曲げている。


 第十章の余白に、小さな走り書きがあった。顔を寄せなければ読めないくらいの字で、こうあった。


 『よく見れば、花が咲いている。何という種類の花なのだろう』。著者の字だろうか。それとも冒険者の手紙の一節か。どちらにせよ、この些細な一行が、なぜか僕の胸を突いた。


           ◇


「ありがとうございます。いい本でした」


「……お役に立てたなら」


 司書が少しだけ笑ったような気がした。気がしただけかもしれない。この目は、いつもそういう細かいものを見落とすのだけど、でも声の調子が――ほんのわずかに柔らかくなったのは、耳が拾った。


 十四人分の紙の山を鞄に詰める。帰ったら一番短い話から書こう。一番何も起きなかった、あの老人の話。荷物を持って後ろを歩いていただけの人の声を、声のままに。


 物語にはあえてしない。矛盾だけど、矛盾のままでいい。あの冒険譚の著者が二十年かけてやったことは、つまりそういうことだ。小さな、けれど確かな証が残るのなら。


 紙に一行だけ書く。二ヶ月前の『朝が来る』の下に。


「朝が来た。次は、靴紐を結ぶところから――」


 鍛冶場の槌音が近い。さっき読んだ二十章分の声が、まだ耳の奥で鳴っている。


 砂漠に水を撒くような仕事を、明日からまた続けるのだろう。


 ただし、今日からは――水を撒いた場所が、少し好きになるかもしれない。

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