6月30日『番の魔導書』
六月の最後。
午前中にザルツさんが来た。いつもの火曜日。階段を二段飛ばしで三階に上がっていく足音が、もう耳に馴染んでいる。静かな朝。
――十時半。
揃った靴音が聞こえた。幾つもの硬い靴底が石畳を叩く音。軍靴のようだ。
窓の外に灰色の馬車が止まっていた。側面に冠と盾の紋章。王家の紋章だった。
扉が開いた。胸に同じ紋章をつけた警護兵が、無言で館内に展開する。
「申し訳ございません。本日は王命により、臨時閉館といたします」
自分の声が、ひどく落ち着いて聞こえた。三階から降りてきたザルツさんと目が合った。状況を一目で読んで、道具を鞄に戻し始める。
「姉さんからの差し入れ。カウンターに置いとくから」
布包みがそっと置かれた。
来館者が全員いなくなり、警護兵たちに続いて最後に入ってきた人物。小柄な女性だ。灰色の上質な外套に銀縁の眼鏡。左胸に王家の紋章。額の短い角が、磨かれたように滑らかに光っている。
「王宮書庫管理長、ヴィルヘルミーナ・フォン・ライヘンバッハです。秘蔵書庫の特別監査を命じられております」
◇
大勢の兵士が一階から三階までをくまなく調べていくあいだ、ヴィルヘルミーナはカウンターの向かいに座っていた。分厚い手帳を取り出して睨みつけている。先日、エーデルガルトさんが付けてたあの手帳。素早く目を通し、実際の帳簿記録と比較していく。
「……四階を開けていただきます」
四階。秘蔵書庫。扉が開いて、青い光が漏れる。
ヴィルヘルミーナは入口から中を見た。一歩も踏み入らない。
「千年の書。……確かにありますね」
その目が私の顔に戻った。
「この書庫に、あなた以外の人間が立ち入った形跡は――ありませんか」
「……ございません」
「……なるほど」
一階奥の執務室に戻り、向かい合う。
「二十一日。鍛冶祭の当日です。……来訪者はありましたか」
帳簿上、あの日の来館者数はゼロだ。祭りの日、図書館は閉館していた。あの部屋で起きたことは、数字の外にある。じわじわと追い詰められていく――そのとき。
扉の外で、兵士の気配が変わった。敬礼に足を打ち鳴らす音。
◇
「――やあ。待たせたかな」
執務室の扉が開いた。
暗い外套のフードを深く被った、長身の人影。外套の裾から、白い羽根が一枚、床に落ちた。
ヴィルヘルミーナが深く一礼し、何も言わず退室する。そういう段取りだったとでもいう風に。
フードが外された。純白の翼に整った顔立ち。隠す気が一切なく、あふれる自信。
――ペセ・アレグロ・フェルガース。フリア王室、第三皇子。
「はは。相変わらず狭いね。王立を名乗るには少し寂しすぎる場所だ」
私を見ている。私は知っている。この目を。この、人の話を聞かない笑い方を。
彼は向かいの椅子に腰を下ろし、背もたれに深く体を預けた。
「髪、伸びたんじゃないか? 切らないのかい?」
「切る理由がありません」
「理由が要るのかい? 髪を切るのに?」
「……」
「まあいい。……それにしても五年か。この粗末な椅子に五年。よく続いているね」
「殿下に推していただいた席ですので」
「僕が推したんじゃないさ。君以外に適任がいなかっただけの話」
白い翼の先が壁に触れた。狭い執務室では翼が窮屈そうだが、本人は気にしていない。
「ご用件を伺えますか」
「冷たいなぁ。久しぶりだっていうのに。少しは喜んでくれると思ったんだけどな」
「お忍びで兵士を引き連れて図書館を閉鎖して――それで『喜ぶ』のは難しいかと」
声を上げて笑った。この人は、こういう返しをすると必ず子供のように笑う。
「――監査は茶番さ。まあ、必要な段取りではあったが……」
「……つまり、本来のご用件がおありになると、そういう事ですか」
ペセの表情が変わった。外套の内側から、一冊の書物を取り出す。
――息が止まった。
古い装丁。深い藍色の革表紙に銀の留め金。
見覚えがある。見覚えがありすぎる。四階に安置されている千年の書と――同じ姿。
いや、よく見ると大きさだけが違う。千年の書は両手で抱えるほどだが、これは手のひらに収まるほどに小さい。だが装丁の意匠、革の質感、留め金の形状。そのすべてが、同じ手によって作られたものだとはっきり示している。
「……これは」
テーブルに置かれた瞬間、青い光が微かに脈打った。千年の書と同じ光、同じ青。
「番の魔導書。千年の書の――番となる一冊さ」
まるで眠っている生き物に思えた。光が明滅する。革の表紙の下に、温かい心臓があるかのように。
◇
「王宮の書庫にあったものだ。見ての通り、千年の書との関わりが推察されていたが、照合は進んでいなかったんだ。しかし、先日の点検で――」
「……開かなくなった、と」
「その通り」
表紙が固く閉じて、開かない。この小さな書物は、光だけを漏らして、沈黙を守り通している。
心臓が一拍強く打った。あの日だ。ペディオが千年の書を読んだあの日。
「君に預けるよ。君になら、この謎を解き明かせると思っていてね」
「――お受けできません」
ペセの目が細くなった。
「私にはその資格がありません。この書物の重さに見合う――」
「はは。資格の話はしていないよ」
声が変わった。白い翼が大きく広がった。
「我が王家では六百年、誰もこいつを解読できなかったんだ。だがここなら、少なくとも千年の書と同じ場所に置ける。番は、いつも近くにいるべきだ。そうは思わないかい?」
身を乗り出し、顔を近づけて小声で続ける。
「それに、きっと君の助けになるはずさ。……封印も呪いも、いずれ解かれるためにあるのだから」
立ち上がりかけて、ペセの足が止まった。振り返る。さっきまでの傲慢さも命令口調も、全部どこかに置いてきたような目をしている。
「あ……それと」
「なにか」
「元気そうで安心した。――それも、用件のひとつさ」
この人はいつもそうだ。大事なことほど最後に、ぞんざいに言う。眠っている本が光を漏らすように、本音は寝言のようにしか出てこない。
◇
馬車が去った。靴音が遠ざかり、図書館に静寂が戻った。
テーブルの上に番の魔導書が残されている。離れていた番が、同じ屋根の下に来た。それが何を意味するのかは、まだわからない。
ふと、カウンターの上に目がいった。
ザルツさんが持ってきてくれた、ナディからの差し入れ。
開いてみた。ずっしりと重い黒パン。白くて固い、飾り気のないチーズ。冷めている。
一口齧ってみた。
固くて冷たいが、噛むとじわりと穀物の甘さが広がった。こんなに素朴なものが、こんなにありがたく感じる。
窓の外は薄暮だ。六月最後の光が、カウンターの木目を琥珀色に染めあげている。
七月は何が起こるのだろう。それはまだ、ページを開いてみないとわからない。




