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6月29日『蕾の本』

挿絵(By みてみん)

 月曜日。朝の短い雨が上がってから、窓を開けた。


 濡れた石畳から夏の手前の匂いが立ちのぼる。


 午後。


 教育ギルドの徽章をつけた女性が入ってきた。厚い書類鞄。右手の中指にインクの染み。


 ――どこか、見覚えがある。


「ご無沙汰しています! 四月の図書研修ではお世話になりました」


 声がよく通る。思い出した。五十人の子供たちが嵐のように押し寄せたあの日の、引率の先生の一人だ。


「あの節はどうも。実に……賑やかでしたね」


「ははは。賑やかで済ませてくださるんですね」


 屈託のない顔。彼女はアンネリーゼ、と名乗り直した。


           ◇


 今日は引率ではなく、打ち合わせに来たのだという。七月の夏期読書講座。初日に全員に渡す一冊を探しているらしい。


「同じ本を読んで、感じたことを話し合うところから始めたくて。――『始まりの本』って、わたし勝手に呼んでいます」


「始まりの本ですか」


「是非、一緒に選んでもらえませんか?」


 と、私がカウンターを出ようとしたとき、扉が開いた。


 教育ギルドの制服。利用証を出しかけた手が止まる。


「あ、アンネリーゼ先生?」


「あら。中等課程の子よね。えっと……」


「ティナです」


 彼女は本の返却に来ただけのはずだった。だが「始まりの本」という言葉が耳に届いたらしく、体ごとこちらを向いていた。


「わたしも行っていいですか? あっ――」


 と言って、口を押さえた。アンネリーゼは目を細める。


「いえ、助かるわ。あなた、ついこの前まで対象年齢だったわよね」


「もう十六ですよ!」


「……じゃあ八歳の気持ち、もう覚えてない?」


「いや……覚えてます。たぶん」


 三人で書架へ向かう。私は二人の後ろを歩いた。


           ◇


 一階。児童書架。アンネリーゼの手が迷わず伸びた。


 『お星様どろぼう』。星を盗む少年の謎解きの話。


「これ、わたし好きなんですよ」


 ティナが少し考えてから口を開いた。


「わたしも八歳のとき読みました。けど、犯人すぐわかっちゃって。……あと、主人公がちょっと特別すぎません? 天才少年って感じ。自分と関係ない話だなって思っちゃうんですよ」


「入っていけない?」


「うーん。なんとなく推薦図書っぽいというか……きちんとしすぎてて」


 棚に戻す。ティナの正直さには容赦がない。だが嫌味もない。


 今度は私が棚から一冊差し出した。


 『世界で一番口の悪い先生』。毒舌の教師が答えを教えず、問いだけを投げ続ける物語。


 ティナが数ページめくり、声を出して笑った。


「この先生、最悪! でも面白いかも」


 アンネリーゼも肩を揺らしている。


「面白い。でもこれ読んだら、子供たちが口答えをし始めるんじゃないかしら?」


「始めますね」


 即答。


「絶対始めます」


「……経験者なの?」


「わたしがそういう子でしたから」


 アンネリーゼが本を抱えたまま固まった。


「……初日はやめておこうかな」


 もう一冊。私が差し出す。


 『壁の向こう』。隣り合って暮らす二人が、壁越しに音だけを会話する話。


 アンネリーゼが数ページ読み、表情が柔らかくなった。


「……これすごく好き。いいかも」


 ティナがその横顔をじっと見ていた。小さく呟く。


「……きれい」


「え?」


「あ、装丁が。装丁がきれいだなって」


 慌てて目を逸らす。この子の視線は時折、見えないものに触れている。


「けど、わたしの好きと、子供たちの始まりは。……ちょっと違うかもね」


 棚に戻す手が少しだけ遅い。


 好きな本はいくつも見つかるけれど、始まりの本が見つからない。


 でも、二人の足取りは軽いままだった。迷うこと自体を楽しんでいる風に見えた。


           ◇


 二階外周棚。あまり人の来ない棚の前で、私は足を止めた。


「この辺りの棚は、分類しきれなかった本が多く集まっています」


 ティナが何気なく一冊抜く。


 『三時の約束』。厚みのない本だ。記憶を少しずつ失っていく親子の話。忘れていく中で、毎日三時に会う約束だけが最後まで残る。


 ぱらぱらとめくる。指が止まった。


「……これ、読んでみていいですか?」


 アンネリーゼが覗き込んだ。二人は二階の閲覧席に並んで座った。


 二十分ほどが経ち、二人が並んで階段を降りてきた。ティナがその途中で口を開く。


「これ、読み終わったら、隣の人に話しかけたくなりました」


「わかる。わたしも。途中から『ねえここどう思う?』って聞きたくなって――」


「わたしもです! 我慢してたんですよ」


 声が重なって、二人とも口元が緩んだ。


「不思議。本を閉じたのに、まだ始まったばかりみたいな気がする。終わった感じが全然しない」


 アンネリーゼが少し早口になっている。


「あ、先生、今すごく――」


 ティナが口を噤んだ。


「すごく?」


「すごく、楽しそうです」


 アンネリーゼが一拍おいて、ぱっと顔を上げた。


「そうだ、これだわ。始まりの本は、読み終わったあとに隣の人と話したくなる本」


           ◇


 貸出手続きの間に、ティナが棚のほうを振り返る。


「口の悪い先生の本。……わたし借りようかな」


「あなたは対象年齢じゃないでしょう?」


「心はまだ八歳ですから!」


 三人で笑った。


 アンネリーゼが書類鞄を抱える。来たときと厚さは同じ。足取りだけが違う。


 ティナも帰る。『世界で一番口の悪い先生』を抱えて。


           ◇


 夕方。中庭の植木鉢に目がいった。


 六枚目の葉の先に、小さな緑の粒。蕾だ。


 まだ色はわからない。どんな花かも、まだわからない。

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