6月28日『あの日』
日曜日。
小雨。硝子を伝う水滴は音を立てない。
指先が冷たい。六月なのに、指先だけが冬のように冷える日がある。ここしばらく、こういう日が増えた。季節と身体の温度が、ほんの少しだけ噛み合わない。
カウンターの向こう側に座って、返却された本のページを確認する。ページをめくる速度が半年前より落ちた気がする。気のせいだと思いたい。
午後。足音。
ザラの歩みは、今日は音を殺していない。まっすぐに歩いて、椅子に座る。背もたれに体重を預け、腕を組む。保安報告書の写し。月例の口実。
「……あんた」
長い間。窓の外を見る。灰色の空。水滴が硝子を伝う。
「……少し、長くなります」
ザラが姿勢を変えない。待つ形のまま、動かない。
◇
窓のない部屋。燭台にぼうっと灯りがともり、青い光が狭い空間を満たしている。壁の向こうから、祭りの太鼓の遠い音がかすかに届く。
ページを捲る音。琥珀色の左目が行を一つ一つ追っていく。その表情は途中まで懐かしいものだった。文字が読めることを誰よりも楽しんでいた頃と同じ、好奇心にあふれる目。
だが、あるページで指の動きが止まった。
「……刻印兵装」
声が掠れた。
失われし千年の書はそれを記していた。あの日、水晶の森で起動したもの。幾何学的な破片を撒き散らして砕けたあの残骸の、本当の名前だ。
行を追うにつれ、顔から好奇心が消えていった。失われた古代兵器。人の能力に取り付き、別の力で上書きする。上書きが最後まで進めば、宿主の命を吸い取って炎の化身に変える。この呪いを止める方法は二つしかない。宿主の死か、あるいは他者に押し付けるか。
振り返ったペディオの視線が、私の髪を掠めた。
「……先輩」
重い声が震えた。
「ここに書いてある通りなら、僕は――僕は、あの場で死んでいたはずです」
◇
雨音が変わる。水滴ではない。硬くて、冷たい粒の記憶。
瘴気に曝された木々が結晶化した、水晶の森。透明な幹と枝が広がっている。ピンクの霞に視界がぼやける。
「先輩。僕の翼……どうなっていますか」
上書きが進んでいた。風の力が消え、炎の術式に書き換わっていく。あの子の中の情報が、一つずつ消えていくのがわかった。
駆け寄り、胸に手を当てた。触れた瞬間、体の中を駆け巡る術式が、目の前に浮かんで見えた。
古代の刻印。禍々しく、精緻で、美しいとすら思えるほどの構造。解除はできそうにない。複雑で、何よりも時間がない。それなら――。
私は右の掌をあの子の胸に強く押し当てた。
術式が掌を通して流れ込んでくる。熱くて、冷たい。視界が白くなる。
――あの子は風の力を失い、炎を得た。
――私は力そのものを、失った。
◇
雨音が戻る。
静かだった小雨が本降りに変わり、窓の硝子を叩いている。
ザラは何も言わない。椅子に座ったまま、両手を膝の上に置いて、動かない。金緑の瞳だけが揺れている。
「私の能力が失われたことは、知っていましたよね。……この髪の理由も」
「ああ。しかし、その理由は知らなかった。……まあ、聞かなかったしね」
「全てはあの日の結果です。私の選択が、呪いを二つに分けたのです」
長い間。
「彼は千年の書を読んで、すべてを知りました。『全てを元に戻す方法』をも。……それは――」
「……誰かにおっかぶせるか、それとも、全部を背負えば――翼は元に戻る、か」
金緑の瞳が動いた。押し付けるべき相手とは誰のことなのか。全部を背負うということが何を意味するのか。
「彼は。……一瞬考えました」
声を落とす。
「八年間ずっと、翼を取り戻すことだけを考えてきたはずです。その答えが目の前にあった」
「……」
「けれど、彼は――どちらも選ばなかった。書を閉じて、そして去りました」
ザラの耳が動く。
「彼は、最後に一度だけ振り返って、『先輩』とだけ」
あれは感謝でも恨みでもなかった。真実を知った者の、言葉にならない呼びかけに思えた。
◇
雨音が弱まり始めている。窓の外が、わずかに明るい。
「引き受けたものは、半分になっても消えてはいません。少しずつ。ゆっくりと、私を蝕んでいます」
「……あと、どのくらい」
「わかりません。数年かもしれない。十年以上、もっと長いかもしれない」
あの日の選択が正しかったのかはわからない。けれど――。
「それでも図書館を開けています。本を守り、来る人を迎えて、探しものを一緒に探して。……それが続く限りは」
この建物は私より長く在り続ける。私がいなくなっても、本棚は残る。けれど今日ここを開けているのは、私だ。
ザラが立ち上がって振り返る。金緑の瞳。怒りでも悲しみでもない。もっと深い、名前のない何か。
「……ばかだね」
一言だけ。
それから、もう一度座る。さっきより近い位置に。椅子を引いて。
何も言わない。何も聞かない。ただ、隣にいる。




