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6月27日『二十章』

挿絵(By みてみん)

 土曜日。


 窓を全開にしても風がない。空気が重たく、棚の本が少しだけ汗をかいている。


 午前十時。扉が開いて、革鞄の擦れる音がした。


「配達です」


 アウグストさん。四十代。背中に折り畳んだ褐色の翼が、鞄の紐の下で窮屈そうにしている。十年前に先代の配達夫から引き継いで以来、毎日この街の郵便を運んでいる。


「祭りの後は増えるんだ、手紙が。帰ってから出すからな」


 鞄から封筒の束を取り出して、カウンターに置く。普段の倍はある。


「少し座らせてくれ。今日は暑いな」


 椅子を出す。アウグストさんは鞄を床に下ろして、翼の付け根を伸ばすように肩を回した。額の汗を拭く。


 私は郵便物を仕分けていく。貸出延長の申請、他都市からの蔵書照会、資料の寄贈申し出。


 一通だけ、指が止まった。見覚えのある封筒。差出人の記載はない。


「お。それ、今年も来たか」


 アウグストさんが椅子から覗き込む。


「毎年この時期に届く。もう二十年になる。俺が配達を引き継ぐ前からだからな」


「今年の消印はアエリアですか」


「アエリアだな。去年はマレフ。その前はインニクタティ」


 封を開ける。


「おや。……いつもより軽いな、今年のは」


 アウグストさんが言った。封筒の重さを覚えている。十年分の郵便を運んだ腕の記憶。


「いつもは本みたいに厚いのに、今年は葉書と便箋みたいな紙が数枚だけだ」


 取り出した紙を見て、手が止まった。


 去年まで、毎年届く原稿はすべて同じだった。丁寧な筆跡。整った文体。余白も行間も統一されていた。


 だが今年は違う。筆跡が二つあった。一つは見慣れた整った字だが、もう一つは、粗い走り書きの別の手。整った字のほうには、たった一言――。


「留め置きの手紙を、そのまま載せます」


 初めて理解した。この冒険譚を書いていたのは、冒険者本人ではなかった。誰かが冒険者から手紙を受け取り、物語に仕立て直してこの図書館に送っていた。毎年一章ずつ、二十年間。


           ◇


 書庫の奥から、先代から保管していた十九章分を引き出した。几帳面な字で「未明の冒険譚」と表紙に書いてある。


 改めて目を通す。一章が一つの街、一つの冒険に対応している。


 第一章。鉱山の街で坑道に迷い込んだ子供を助ける話。壁の鉱脈の光を頼りに出口を見つける――ただし冒険者が最後に見つけたのは子供ではなく、子供が隠していた鉱脈の地図だった。


 第五章。港町で密輸船を追う話。飛び込んで見えたのは密輸品ではなく、海底に沈んだ古い船の残骸だけだった。


 第十二章。砂漠の遺跡。罠を抜けた最深部にあったのは空っぽの祭壇。かつて何かがあった痕跡だけ。


 第十九章。北方の山岳地帯。崩落から命からがら脱出する。全十九章の中で最も壮絶な章。


 どの章も冒険者はひとりで、名前も書かれていない。常に一人称で、「俺」とだけ。そして、冒険者はいつも探していたものと違うものに行き着いていた。子供を探して地図を。密輸船を追って沈没船を。宝を求めて空の祭壇を。


 けれど物語は、まるで目的を達したかのように構成されていた。著者がそう整えたのだ。毎回、冒険者のずれた発見を「冒険譚」に仕立てて。


 いくつかの章で、原稿が届いた都市と物語の舞台が重なっていることがわかっている。著者は冒険者の足跡を辿るように移動しながら、留め置きの手紙を受け取り、それを元に原稿を送り続けていたのだ。


           ◇


 手紙に戻り、便箋のほうを開く。走り書きの荒い字だが、読めないことはない。


 内容は、冒険ではなかった。物語でもない。


「この街は風が強い。活気のある良い所だ」

「今朝は膝が痛まなかった。古傷も調子が良い。久しぶりだ」

「今日は市場で久しぶりに干し魚を買った。炭火で焼いた。うまかった」

「午後は宿の前の石段に座って、人が流れていく様子を見ていた」

「書くことが無い。書くことが無いのに手紙を書いている。変な気分だ」


 それだけ。


 魔物も遺跡も危機もない。誰も助けていないし、何も発見していない。第十九章の崩落と脱出の大冒険の後に、干し魚と市場の風景。


 二十通目には目を引く出来事がない。代わりにあるのは、『うまかった』、『何もしなかった』。


 出来事が消えて、初めて人の手触りのようなものが紙の上に感じられた。著者はそれを物語にできなかったのだろう。変えてはいけないと思ったのかもしれない。


 そして、この手紙には『次の街』が書かれていない。二十通目には、次がない。


「……この人は、止まったんだろうか」


 アウグストさんが立ち上がって、鞄を肩にかけ直しながら言った。


「ありきたりな日常が、書くほどのことだったんだろう。この人にとっては」


      ◇


「来年届いたらまた持ってくる。……届いたら、だけどな」


 鞄の紐を翼の付け根にかけ直して、アウグストさんは暑い通りに出ていった。


 ひとりになって、もう一度便箋を広げてみる。便箋の最後のほうに、見落としていた一行を見つけた。


 『夕方、図書館に寄った。小さいが、いい図書館だ。司書と少し話をした。本を読むのも久しぶりだ』


 物語は十九章で止まっている。

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