6月26日『瓶と楽譜』
金曜日。今日は窓を開けると空が高い。
書架を整え、カウンターに着く。風が通る。六月の終わりらしい、乾いた明るさ。
午前の半ば。一階書架の向こうから歌声が漏れてきた。
聞き覚えのある声だ。先週の鍛冶祭前日に来た楽器商。茶褐色の羽根を持つ若い女性が楽曲集を開いている。ページをめくるたびに羽先が震え、旋律が唇からこぼれた。窓は閉まっているのに、彼女の周りだけ紙片がびりびりと揺れている。
「お客様、お声をもう少し落としていただければ――」
「あら、ごめんなさい。良い旋律を見つけると喉が勝手に。……職業病みたいなものね」
注意するのはこれで二度目だ。
「まだこの街にいらしたのですね」
「祭りの合奏を聴いちゃったら、もう少し残りたくなってね。この街の音の根っこを辿りたくって」
ピーナと名乗った楽器商は、三階と一階を何度も行き来しながら古い楽曲集を漁っている。
「あ、そうそう。来る途中で隊商の人に聞いたんだけど、最近護衛を減らしたんですって。あたしは詳しくないんだけれど、街道が静かだからとかなんとか」
楽器商は旋律で噂を運ぶようなものだと、ピーナは笑った。
◇
午後。声の大きさで誰かわかった。
「司書さん! できましたよ! 祭りの匂い、瓶に閉じ込めました!」
三角の耳。調香師見習いのニッカだ。
「鉄と炭と白葉草。それに人の汗と、笑い声の匂いも!」
「笑い声。……匂いがあるのですか」
「楽しい時の息は甘く感じるんです。ほんの少しだけ」
師匠に見せたら「ようやく鼻が言葉を覚えたな」と言われたという。
「最初の頃は全部混ざって大変で。泣いてたんです。何百の匂いが一度に来るので……」
「それは大変ですね」
「師匠からは、『まず一つだけ選べ』って。よく怒られました」
ニッカは少し笑って、続けた。
「最初の頃、師匠の薔薇油を瓶ごと倒して。工房が三日間ずっと薔薇の匂い。もちろん怒られると思ったんだけど、師匠は三日目には『お前のおかげで風邪が治った』って」
ニッカは大笑いしながら、一瓶、カウンターに。
「これ、図書館用です!」
◇
ピーナが三階から降りてきた。ニッカの瓶にまっすぐ近づく。
「ねえ、それ何かしら?」
「祭りの匂いを閉じ込めた瓶なんですよ!」
「匂いを瓶に? あたしの場合は、音を楽譜に写すの。ちょっと似てるわよね」
ピーナが瓶を手に取った。蓋を開けずに、手をかざして目を閉じた。
「……何か揺れてる。粉に近いけど、もう少し重たい」
かざした手の下で、羽先がそよいだ。風はないはずだった。
「煤と、何か植物の葉かしら?」
「すごい。炭の粉と白葉草です。なんでわかるんです?」
「空気の揺れ方でわかるのよ。粒の大きさで変わる」
ニッカの三角耳がぴんと立った。仕返しの顔だ。懐から取り出した古い楽譜をピーナの前に広げる。
「じゃあこれ。何の匂いがするか当ててみてください!」
ピーナは楽譜の上に手をかざした。紙には触れていない。数小節分、手をゆっくり滑らせてから低く口ずさむ。
「蝋燭ね。灯りの下で書いた曲」
「——合ってます。杉の紙と蝋燭の脂。どうして?」
「光が少ない場所だと、音符の幅が狭くなる。手元しか見えないから」
二人とも当ててしまった。顔を見合わせて、同時に笑い出す。
「あなた面白いわね」
「そっちこそ!」
ニッカがピーナの羽根に鼻を近づけた。相変わらず距離感がない。
「——松脂とニスの匂い。楽器を触る人だ」
「当たり。あたしたち、世界の読み方が違うのね」
異なる感覚が、同じ答えに辿り着いている。カウンターの向こうから見ている私には、二人は互いを「翻訳」し合っているように思えた。
◇
話が加速した。
「この匂い、丸いです」
「丸い音は低音ね」
「少し違います。拍子に角が無い感じ」
「じゃあハ長調ね」
「ハ長調って丸いんですか?」
「丸いわよ。ニ長調は四角」
「……四角い調があるんですか」
言葉がすれ違っているのに、なぜか二人とも納得している。
不思議だった。共通の言葉がないのに、通じ合っている。
ピーナが200年前の祭礼歌の楽譜を広げた。手のひらをかざした瞬間、羽根が大きく震えた。目が潤み、風もないのに楽譜の端が微かにめくれ上がる。ピーナの手のひらと紙の間で、空気が小さく渦を巻いている。
「ふう。良い旋律に出会うと酔うのよ。お酒より効くわよ」
ピーナは目を閉じたまま、譜面の上の空気を指でなぞった。
「この旋律を読むとね、まず色が見えてくる。赤銅色。それから熱い。……鍛冶場の風が」
ニッカが静かに頷いた。さっきまでの大きな声ではなかった。
「似てますね。匂いを嗅ぐと、まず最初に温度がわかる。それから形が見えて、最後に名前が浮かんでくる」
音と匂い。入口は違うのに、辿り着く場所が重なっている。
◇
ニッカが瓶の蓋を少しだけ開けた。祭りの匂いが、ひと筋漏れる。
ピーナが目を閉じた。右手を空気にかざすように伸ばす。羽先が微かに震えている。
間を置いて——口ずさむ。鍛冶歌の旋律に、風の都の音階が混ざっていた。
「匂いの中に、音が残ってた。炎の音と、人の笑い声と」
少し黙ってから、ニッカが言った。
「匂いは本に書けない。写真にも映らない。ここに確かにあったのに、誰も証明できない」
「音もそうよ。どんなに美しい旋律も、鳴り終わったら消える。楽譜はその影を写しているだけ」
「……影」
ニッカの耳がゆっくりと立った。何かが腑に落ちた顔だった。それから不意にこちらを向く。
「司書さん、今日……雨上がりの土みたいな匂いがします。落ち着いてるけど、何か考えてる匂いです」
本もまた、影なのだ。誰かの祈りの影。消えてしまうものを紙の上に留めようとした痕跡。
この図書館は、消えゆくものたちの存在証明を預かる場所だった。匂いの瓶も、音の楽譜も、同じことをしている。
旋律と匂いが、一階の空気の中で混ざった。
ほんの数秒。鍛冶祭の夜が、『あの日の夜』が一瞬だけ戻ってきた——ような気がした。




