6月25日『載らない名前』
木曜日。晴れ。
月次の貸出集計に取りかかる。数字を拾っていく途中で、扉が開いた。
縦にまっすぐ伸びた長い耳に、短く刈り込んだ白髪。背が高く、痩せた女性。襟は一分の歪みもなく、ボタンが一つ残らず留まっている。
「王立行政府、記録監査局のエーデルガルトです。年次の定例調査に参りました」
封蝋つきの書簡と行政府の印。毎年六月末に届く調査書。例年は書面で済んでいた。直接来館は初めてのことだ。
「今年は現地確認を含む調査に変更となりましたので」
変更の理由は述べなかった。革装の手帳。削りの均一な鉛筆。迷いのない所作で閲覧机に向かう。
◇
貸出台帳、蔵書管理台帳、来館者記録をそれぞれ並べた。
「六月の貸出件数ですが、前年同月比で――」
「一割増です」
「理由を伺えますか」
「鍛冶祭の準備で、技術書の閲覧が増えまして」
短い問いに、短い答え。帳簿のページがめくれる音だけが間を埋めていく。エーデルガルトの長い耳が、質問のたびにわずかに傾く。
「蔵書管理台帳の総数。――こちらは全階を含んでおりますね」
「一階から三階までです。四階は秘蔵書庫のため別管理となっています」
「台帳はございますか」
「施錠した書庫内にて保管しています」
手帳に書きつける。それだけ。
「六月中に施設管理上の特記事項はございませんか。鍵の交換、施錠の不備、修繕等」
「ありません」
鉛筆が手帳の上を走る小さな音。
修復依頼、蔵書廃棄、新規受入件数等々。次々と数字を追い、三階の棚を一つずつ見て回ってから、エーデルガルトは戻ってきた。
「保存状態は良好です」
それが褒め言葉だと分かるまで、少しかかった。
蔵書管理台帳に戻る。ページをめくる指が止まった。在架数と総数を照らし合わせている。
「一冊、合いませんね」
「先日、修復の過程で台帳番号の整理が発生しました。海賊版が一冊混在していたため、分類を保留にしています」
「保留。――注記で対応してください」
それだけ。深追いはしない。
◇
監査の手が帳簿に戻ったところで、扉がまた開いた。
灰色の外套。短い角。大柄な男性が本を一冊、カウンターに置く。
「先日お借りした本の返却に」
レオン。古書商として来館する、ここ最近の顔。手続きを済ませ、新しい一冊を借りる。利用証を記帳していると、閲覧机からエーデルガルトが顔を上げた。
「――失礼。その胸の留め具、見慣れない規格ですね。行政府のものとも違う」
レオンの目が一瞬だけ鋭くなった。だが声は穏やかなまま。
「……いやはや、お目が高い。以前、とある王家との取引で頂いたものでして。それ以来、癖でつけたままにしております。古物商をしていると、いろいろなものが手元に残ります」
「なるほど。物は来歴を語る、ということですか」
「帳簿と同じでしょう。数字にも来歴がある。そして、嘘をつかない」
「いえ。並べるのは人です。数字は嘘をつきませんが、選ばれなかったものは――私の管轄ではありません」
「いい線引きです。……追う仕事をしていると、線の外ばかり気になるものです」
エーデルガルトは手帳に視線を戻した。
レオンがカウンター越しに本を受け取り、そして口元がわずかに動いた。
「……このあたり、随分と静かになりましたね」
灰色の外套が扉の向こうに消えた。
◇
静かになった閲覧室で、エーデルガルトが来館者記録に目を移す。
「この記録。貸出以外の用件が多いようですね」
相談。修復。閲覧のみ。資料調査。借りずに帰る人が三割以上いる。
耳がわずかに動いた。窓の外に向けて。遠くから金属を打つ音が届いている。
「音が聞こえますね」
「鍛冶場です。この時間帯は第二炉が動いている時間です」
しばらく、どちらも何も言わなかった。鍛冶場の槌の音が、窓越しに遠く届いている。
「……記録に残るものと、残らないもの。数えられるものと、数えられないもの。――どちらが多いと思いますか」
「残らないもののほうが、多いと思います」
手帳を閉じた。鉛筆を胸ポケットにしまう。
「帳簿は正確でした。先ほどの注記の追加を一点。それ以外に指摘事項はありません」
書類鞄の留め金がかちりと鳴る。帰り支度を整え終えてから、エーデルガルトはまっすぐにこちらを見た。
「今年の六月は、穏やかでしたか」
帳簿とは関係のない質問だった。
「ええ。穏やかな六月でした」
「そうですか」
それだけだった。
◇
「来年は書面で済むことを、願っています」
エーデルガルトが振り返らずに、一言。そして、扉が閉まった。
台帳を開いた。六月二十一日。来館者の名前。借りた本。返した本。――あの日の欄に、あるはずの名前がない。
台帳に載らない本が一冊。台帳に載らない名前が一つ。
ふと思った。あの人は帳簿を見に来ただけだったのだろうか。
それとも――私の声を、聴きに来たのだろうか。




