6月24日『手触り』
今日は、窓を開けても空気が動かない。湿度計の針は昨日と同じ位置から降りてこない。
街は静かだ。
十時半。
こん。
短い金属音。杖の先が床石を叩く音。この音を聞き違えることはない。
「おはようございます。今日はお一人ですか」
「ええ。ユーリは合同訓練でね。今日は私だけ、お邪魔するわ」
地図師のダリアさんだった。小柄な体に革の鞄。片手に金属の杖。両目の薄紫の曇りが、窓からの鈍い光の中でいっそう淡く見える。
鞄から筒を出しかけて、手を止めた。筒を鞄に戻す。また手を伸ばしかけて、やめる。
「……今日は二つ、用があるの。一つは仕事。もう一つは……ちょっと恥ずかしい話なんだけど」
◇
小さく笑いながら言う。恥ずかしい話を、先に片づけたほうが楽だろう。
「ユーリの誕生日が来週なのよ」
ダリアさんが小さく咳払いをした。この人の照れた顔を初めて見る。
「おいくつに」
「二十三。……あの子、地図と測量の本しか読まなくてね」
何か別の世界の本を贈りたいのだが、何がいいかわからない。それで、ここへ来た。
「ユーリさんは何に興味がありそうですか」
杖が床を一度叩いた。こん。考える時の癖。
「……壁の向こう。いつも壁の向こうに何があるか気にしている」
以前に二人で来館されたときのことを思い出す。壁の向こうの空洞を感知したのは、弟子のユーリさんのほうだった。師である彼女はその好奇心を、正確に見抜いている。
「冒険記などはどうでしょう。地図にない場所を歩いた人の記録です」
カウンターの下から本を取り出す。
「昨日ちょうど、修復が終わった本があります」
『南方都市巡歴記』を取り出した。昨日ザルツさんが直したばかりの一冊。
「こういう本です。手に取ってみてください」
ダリアさんの指が背表紙に触れ、修復の跡をたどるように、ゆっくりと這った。
「紙がいいね。手に馴染む」
手触りで本を選ぶ人だった。
「南通りの書店なら、旅行記の扱いがあるはずです」
「……ありがとう。あの子には内緒にね」
遠くを測る目は、近くの人に言葉を贈るのが苦手らしい。
◇
題名と版元を書き込んだカードを鞄にしまったダリアさんが、今度は筒を迷いなく取り出した。表情が仕事の顔に変わる。
閲覧机に測量図を広げる。坑道の最深部から東へ逸れた場所に、新しい赤い線が引かれている。
「あたしらが『赤壁』と呼んでる場所。壁だと思っていた場所の向こうに空間があるんだ。先日、ユーリが感知した。あの子の耳は正しかった」
あのとき、この人は『描かないことで伝える』と教えていた。壁を壁として、空白のまま選んだ。今回は、描いている。その奥の未知の空間として。
「壁面に加工の跡があって、どうやら自然の空洞ではないのよ。描き残した人がいないのか、描けなかったのか。それはわからないけれど」
旧坑道図にこの空間の記録はない。百年以上、いやもっと昔の構造物かもしれない。好奇心が声に乗っていた。怖さより先に「面白い」が来ている声だった。
測量図を押さえる右手が革手袋を外している。
紫の斑点が、手首の内側まで広がっていた。以前より、明らかに。
◇
ダリアさんが測量図を丸め直しているところに、扉が開いた。薬草師のマティアスさんだ。
「珍しいね、こういう場所で」
「珍しくて、少し変な感じですね。いつも診療所ですから」
討伐隊の現場では、この二人は必要な言葉だけを交わす。この街中で顔を合わせるのは初めてのようだった。
マティアスさんの用件は、以前の調合記録の再確認だった。同じ革装の冊子。先日もこの棚から出していたものだ。挨拶の間を置いてから続ける。
「処方の効能が弱くなってきているのです。今月に入ってから、目に見えて。……何が原因かはわかりませんが」
ダリアさんの杖が鳴った。こん。
「その、弱くなった時期──いつからだい?」
「今月の第二週です。正確には、十日ごろから」
杖がもう一度鳴った。こん。
「私たちが『赤壁』に空間を見つけたのは、先々週の終わり。翌週頭に報告を上げたんだが」
冊子を開く。八十年前の薬草師の走り書きが、黄ばんだページの端に残っていた。
──第三鉱区の奥で急患。空気がおかしいのか。報告、経路を改めるよう。
「八十年前にも似たようなことが……」
閲覧机に三つのものが並んだ。今日の測量図。マティアスさんの調合記録の手帳。八十年前の冊子。地図を指で辿る手、数字を読み上げる声、ページを繰る音。
「当時は壁の向こうを確認せず、封印したようですね」
◇
「……わからないことが、わかった、といったところかな」
マティアスさんが静かに言った。ダリアさんの口元が緩む。
「地図師としては、ハテナの記号を描けたということだ」
マティアスさんが畳んだ手帳から花弁が一枚覗いて、ダリアさんがふと顔を上げた。
「この匂い。……花かい?」
「ええ。薬と一緒に隊員に渡してるんですが、ただの気休めです。薬効はない。父が始めた習慣でして」
「……いい匂い。坑道では気づかなかったわね」
「ここは本の匂いだけですから」
◇
ダリアさんが先に帰った。杖の音が階段を降りていく。こん、こん、こん。間隔が均一だ。
窓際の閲覧席では、マティアスさんが調合記録の写しを作っている。黄色い指先が丁寧に数字を追う。
「……あの人の手を、見ましたか」
「ええ」
「診療所ではすべてを数字で管理しています。曝露量、滞在時間、症状の段階」
ページを手繰る指が止まった。
「それでも限度はあります。私にできることは、先に延ばすぐらいのものです」
しばらくして、マティアスさんも帰った。背筋のよい姿が扉の向こうに消えた。
窓からようやく風が通った。除湿剤の薄紙が小さく揺れる。




