6月23日『迷子の本』
火曜日。曇り。
窓を開けても風がない。空気ばかりが厚く、湿度計の針は六十八を指している。革装丁の棚に白檀と除湿の薄紙を追加してから、カウンターに座った。
祭りの余韻は昨日のうちに街から消えたが、微かな鉄の匂いだけが、風のない空気の底にまだ沈んでいる。
足音がする前に、扉が静かに開いた。いつもの時間。大きな手が使い込んだ鞄を持ち、もう片方に布で包んだ平たい荷物を抱えた彼が入ってきた。
◇
「……おはよう」
「おはようございます。……それは」
「先週話したやつ。同じ本が二冊だ」
ザルツさんが布を開く。古い革の匂い。二冊の『南方都市巡歴記』。同じ題名、同じ装丁。だが、一冊は表紙の革がわずかに斜めに切れている。
「前に誰かが直そうとして、途中で止めてる。糊が多すぎる。刷毛の向きも逆だ。……素人の仕事だな」
ザルツさんの縦長の瞳孔が、ゆっくり丸くなる。
「だが、ここで止めたのは正しい。これ以上やっていたら、紙が破れていた」
二冊を並べる。綺麗な方の背表紙の内側に滑り込んだ、ザルツさんの指先がかすかに光る。
「こいつが本物だ。糊が膠。紙の目が縦。綴じ針が中に三本あるのが分かるだろ」
もう一冊。
「で、こっちがこの図書館にあった偽物。針が二本。とっくに錆びて外れかけてる。……安い鉄だな」
海賊版の方の扉ページに、いたずら書きがあった。ぐるぐるの線と、読めない殴り書きの字の中に、一つだけ丁寧な丸がある。何度も描き直した跡。
「落書きだが、書いた子供は上手く描きたかったんだろう」
◇
修復に入る。劣化した背表紙の隙間に骨べらの先を差し込み、少しずつ剥がしていく。
「紙が覚えてる。急に剥がすと、紙ごと持っていかれる」
骨べらが止まった。
「……ここだ。金属の感触がある。留め具だ」
糊の層の下から、親指の爪ほどの真鍮の留め金が現れた。緑青がうっすら浮いている。糸を通す穴が二つ。
「昔の綴じ方だ。背表紙を鉄の金具で留めてから糊を塗る。今はあまりやらないんだ。錆びて紙を傷めるから」
「三十年前の技法ですか」
「いや、もっと古い。五十年以上は前の仕事だな」
この本は三十年前に寄贈されていた。だが綴じの技法はさらに古いものらしい。名前も顔も知らない誰かの留め金が、今日まで背骨を支えていた。
「本は何度も直される。一人の修復師だけのものじゃない」
糊の裏から小さな紙片。慎重に取り出し、開く。子供の字。大きくて、丸くて、不揃いな。
「おかあさんへ」
それだけ。宛名だけだ。裏にかすかな鉛筆の跡がある。何か書いて、消した跡。背表紙の裏側で眠っていた手紙の痕跡。
「本の中に、ときどきあるんだ。虫の死骸とか、押し花とか。そしてこれは――」
「届かなかった手紙ですね」
「届けなかっただけかもしれないがな」
五歳か六歳の字だろうか。字を書けるようになって、最初に書いた宛名。でもその先が書けなかった。消した跡だけが残っている。
糊が乾くのを待つ。しばらく、どちらも何も言わない。
「……静かだな」
梁が軋む音。
「ええ」
窓の外で、鳥が一羽、妙な飛び方をしている。左右にふらふら。枝にぶつかりそうになって急に上がる。
「なんだ。酔っぱらってるのか、あれは」
「祭りの残り酒でも飲んだのでしょうね」
鼻の穴が少しだけ広がった。鳥が木の葉に突っ込んで、葉が三枚散る。
少しだけ空気が軽くなった。
◇
糊が乾いた頃に、中身を確認してみた。
表紙裏に貼り付けられた紙片。『此の書を盗みし者に災いあれ』。
「……立派な字だな。まあ、字だけだが」
背表紙の内側に、持ち主のメモが見つかった。『六月十四日。隣家が火事。持って逃げた』。火事のとき抱えて走った一冊だったらしい。この人にとっては、本物だったのかもしれない。
ページを更にめくり、本物と照らし合わせていく。すると、本物は十一章で終わっているのに、偽物の方はなぜか十二章あることに気が付いた。
『壁のない街の市場』。文体が全然違う。荒く拙い文章だが、市場の描写がやけに生々しい。大声で笑う果物売り。半年タダで場所を貸したよろず屋。薄暮の道を歩いて帰る、裸足の子供たちの風景。
「インクも違うな」
ザルツさんが十二章のページに指を置いた。
「本文のインクは色素が濃い。古いインクによくある配合だ。十二章のは薄くて新しい。おそらくだけど、本文と十二章は同じ時期に書かれていない。十二章は少なくとも十年は後に書かれてる」
「書き足したということですか」
「よほど忘れたくなかったんだろうな。この市場の景色を」
◇
「で。この章、どうする。本物と同じ構成に戻すこともできるが……」
いたずら、メモ書き、手紙の切れ端、十二章。この一冊に残っているものは、他のどこにもない。
「残しましょう。できるだけそのままで」
ザルツさんが海賊版の表紙を撫でる。
「そう言うと思った。作りは安いが、表紙の革だけは上質だ。盗んだ言葉を本物で包んだってわけ。……どうやら、ここだけは金を惜しまなかったらしいな」
針と留め具を一本ずつ、指で確かめる。指先がじわりと光った。
◇
「……五十年後には、また他の誰かが直すだろ」
ザルツさんが道具を鞄にしまう。刷毛、骨べら、糊壺、薄紙。朝と逆の順番で、一つずつ丁寧に。鞄を肩にかける。
「重そうですね」
「もう慣れた」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
カウンターの上には修復が終わった本が置いてある。寄贈品でもない。購入品でもない。押収品でもない。
どこにも帰れない、迷子の本が一冊。




