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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
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4月9日『縦糸と横糸』

挿絵(By みてみん)

 郷土資料室に見慣れた背中が入ってきた。


 ヨルク・ファーデン。この街で三代続く織物工房の主人だ。作業着の袖口には白い糸くずがついている。掌が広く、指の腹に糸の擦れた薄い胼胝がある。五十代半ばの屈強な体躯だが、今日はどこか肩が落ちて見えた。


「何かお探しですか」


「店を畳もうと思ってる」


 彼は振り返らずに答えた。


「息子は継がない。新しい工場で機械の仕事に就いた。手織りなんか古いと言ってな。畳む前に、一度だけ確かめておきたいことがある。昔、職工たちの寄り合いがあったと聞いた。祖母の代に」


 私は棚から数冊の資料を取り出した。創業当時の工房の記録が含まれているものだ。


 彼はページをめくる手を止めた。ページの間から古い写真が滑り出した。端が黄ばみ、角が丸くなっている。労働者たちが集まり、藍色の旗を掲げている姿だ。その前に、一人の女性が立っていた。


「……祖母だ」


 声が震えていた。


「この旗を織っている時のことを、覚えている。夜中に工房へ降りていったら、祖母が一人で織機に向かっていた」


 彼の目が、遠くを見ている。


「『何を織っているの』と聞いたら、祖母は笑った。『みんなの旗だよ。一人で持つには重すぎる。でも、みんなで持てば軽くなる。そういう旗を織っているんだ』と」


           ◇


 さらにページをめくると、夜学の記録が現れた。毎週水曜、工房の二階で開催。参加者は鍛冶工、石工、印刷工。


 彼はポケットから木製のシャトルを取り出した。使い込まれて艶が出ている。側面には『縦糸だけでは布にならぬ』と刻まれていた。


「祖母の形見だ」


 その木肌を、彼の掌が包み込む。


「子供の頃、祖母の膝に座って、このシャトルが動くのを見ていた。『糸には声がある』と、祖母は言っていた」


 私は黙って耳を傾けた。


「俺には分からなかった。声とは何のことか、理解できなかった。でも祖母は俺の手を取って、糸に触れさせた」


 彼の指先が、シャトルの木肌を撫でた。


「その時だ。陽の光と、風に揺れた記憶が流れ込んできた。そして――誰かと寄り添いたいという、願いが」


 郷土資料室の小さな窓から入った風で、ページの端がかすかに揺れる。


「俺は驚いて、黙っていた。自分でも、何が起きたのか分からなかった」


 彼は小さく笑った。


「祖母は何も聞かなかった。ただ俺の顔をじっと見て、静かに笑っていた。そして言ったんだ。『焦らなくていい。糸もまた、お前を待っている』と」


           ◇


 私は別の資料を静かに差し出した。各地の労働者たちが、互いに技を教え合っている記録。


「息子に言われたんだ。『親父は頑固すぎる。手織りにこだわっても食っていけない』って」


 その声には、長年の信念と、それが揺らぐ苦しみが滲んでいた。


「この頑固さも、祖母譲りだ。三代続けて、意地っ張りの家系でな。だから変えられなかった。変えたら、守ってきたものが崩れると思った」


 私は静かに耳を傾けた。


「……祖母は、布を『売る』だけじゃなかったんだな。夜学の場所を提供し、組合の旗を織り、職工たちが集まる場を作っていた。縦糸だけじゃない。横糸を」


           ◇


 昼過ぎ、彼は資料を抱えて貸出カウンターに来た。目に、朝とは違う光が戻っている。


「祖母が亡くなる前、俺に言ったことがある」


 彼はシャトルを見つめた。


「『お前は縦糸を張るのが上手い。真っ直ぐで、強い糸を張れる。でもね、それだけじゃ布にならない。横糸を受け入れなさい。誰かがシャトルを渡してくれるのを、待っていなさい』」


 彼は小さく笑った。


「四十年、意味が分からなかった。俺は一人で縦糸を張り続けてきた。それが職人だと思っていたんだ」


「今は、分かるのですか」


「……分かり始めた、というところだな」


 貸出手続きが終わった。


「週末、計画を立てる。工房で夜学を再開しようと思う。祖母がやったように」


 彼は資料を抱え直した。


「店を畳むのは、もう少し先にする」


           ◇


 彼が図書館を出ていく背中を、私は窓から見送った。外は午後の光が傾き始めていた。通りの向こうに、染料の干し場の布が風に翻っている。


 玄関脇の若木が、春風に揺れている。彼はその幹に、一瞬だけ手を触れた。


 風が止んでいた。


 それでも若木は、静かに揺れていた。


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