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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
10/26

4月10日『また来週』

挿絵(By みてみん)

 閉館まで三十分。


 西日がカウンターを琥珀色に染めている。書架の影が閲覧室の奥まで伸びて、天井の梁に届いていた。


           ◇


 最初の来客は、小柄な少女だった。丸い耳が、肩まで届く髪から覗いている。


「あの、これ、返します」


 ミルが差し出したのは、古い絵本だった。見覚えがある。禁帯出の棚にあるはずの一冊だ。


「こちらは」


「……間違えて、持って帰っちゃって」


 ミルは目を逸らした。嘘が下手な子だ。禁帯出の本を「間違えて」持ち出すことはできない。そもそも貸出処理をしていないのだから。


「間違い、ですか」


「うん」


 私は絵本を受け取った。ページに折り目はない。丁寧に扱われた形跡がある。


「おねえちゃんに、見せたかったの」


 少女の声が、小さくなった。


「おねえちゃん、寝たきりで。……この絵本が好きだったってお母さんが言ってて。でも……」


 黙って持ち出すしかないと、この子は思ったのだろう。姉の笑顔が見たくて。


「お姉さんは、喜んでくれた?」


「うん。すごく」


 私はカウンターの奥、低い棚から別の一冊を取り出した。同じ表紙。ただし、少し新しい。背表紙の色がまだ鮮やかで、角も尖っている。


「複写版です。こちらなら貸出できますよ」


 ミルの目が、大きく見開かれた。


「はじめから、これを」


「ええ。声をかけてくれれば」


 少女は、泣きそうな顔で笑った。


「ごめんなさい。……ありがとうございます」


「また来週ね」


           ◇


 扉が、勢いよく開いた。


「おう! 司書さん!」


 大柄な男が、ずかずかと入ってくる。口元から覗く牙が、にかっと笑う形に曲がった。鋳造工場の夜番頭だ。煤で黒ずんだ作業着が、仕事帰りであることを物語っている。


「返しに来たぞ!」


 本が、カウンターに「どさり」と置かれた。


「お静かに願います」


「おっと、すまんすまん」


 声の大きさは変わらない。奥の閲覧席で、白髪の老人が迷惑そうに顔を上げた。


「難しすぎたみたいでな! あいつ、三ページで寝ちまったらしい!」


 彼が部下のために借りた技術書のことだ。


「でもな、あいつ言うんだよ」


 ほんの少しだけ、声が落ちた。


「『番頭さんが俺のために選んでくれた』って。読めなかったのに、嬉しかったんだと。おかしいだろ?」


 そう言って、がははと笑う。腹の底から響くような笑い声だった。不器用な親切が、不器用なまま届いていた。


「今度は絵が多いやつにする! どこだ?」


 私は児童書の棚を指差した。


「よし! 今日は給料日だ! 帰りに一杯やるぞ!」


 声は最後まで大きいままだった。扉が閉まっても、通りを歩く足音と笑い声がしばらく聞こえていた。でも、来週もきっとこの調子で来るのだろう。


           ◇


 閉館十五分前。大柄な夫婦が入ってきた。クラウス夫妻だ。


 夫の方が、深々と頭を下げる。立派な角が、床に届きそうなほど深い。


「このたびは、真に申し訳御座いませんでした」


 差し出されたのは、濡れた本だった。


「通り雨に遭いまして。弁償が必要でしたら」


「あなた、まず本を渡して」


 妻が、小声で促す。


 私は本を受け取り、状態を確認する。表紙は濡れているが、中身は無事だ。


「乾かせば問題ありません。お気になさらず」


「寛大なご対応、ありがとうございます」


「堅いわね、あなたは」


 妻が呆れたように言う。


「そもそも、傘を忘れたのはあなたでしょう」


「君が『今日は降らない』と言ったからだ」


「『たぶん』と言ったはずよ」


「『たぶん』は聞こえなかった」


「いつも都合の悪いことだけ聞こえないのね」


 空気が険しくなる。私は少し身構えた。


「まあ、いいわ」


 妻が、ふっと息を吐いた。


「あなたが風邪をひかなければ」


「君の方こそ」


 夫が、妻の肩にそっと手を置いた。妻が、その手に自分の手を重ねる。さっきまでの険悪さが、嘘のように消えていた。


「また来週、取りにいらしてください」


 二人は肩を寄せ合い、連れ立って出ていった。夫の大きな角が、扉の枠をぎりぎりで通り抜ける。妻がその角をよけるように小さく首を傾けた。長年の癖なのだろう。


 夕日の中に消えていく二つの影は、どこか楽しそうに見えた。


           ◇


 閉館五分前。


 金属の足音が近づいてきた。


 潜水服のような装備に身を包んだ、小柄な影。丸窓のついたヘルメットの中で、水がゆらゆらと揺れている。その奥に、緑がかった滑らかな肌と、大きく横に広がった口元が見えた。


 私は「貝殻さん」と呼んでいる。


 彼らの種族には、眠りの中で知識を共有する力があると聞く。本を読む必要など、ないはずだ。なのに、毎週金曜日に現れる。


 その客は、いつものように無言で館内を一周した。そして、カウンターの前で立ち止まる。


 金属の手袋が、まず一冊の本を差し出した。先週貸した風景画集だ。水滴ひとつついていない。


「ありがとうございます。いかがでしたか」


 返事はない。ただ、丸窓の奥で瞼のない目がゆっくりと細まった。


 続いて、懐から小さな貝殻を取り出した。渦を巻いた、淡い桃色。


「こちらに飾らせていただきますね」


 窓際の棚を指差す。青や白や橙色の貝殻たちが、西日を受けて光っている。


 私はカウンターの下から、別の風景画集を取り出した。今度は草原と夕焼けの空。


「どうぞ」


 丸窓の奥で、大きな目がさらに見開かれた。瞼のない瞳が、じっと表紙を見つめている。


 金属の手袋が、そっと表紙に触れた。水の中からは決して見ることのできない景色。言葉にできない色彩。


 貝殻さんは、本を胸に抱くようにして受け取った。


 小さく頭を下げて、去っていく。


           ◇


 午後六時。閉館。


 扉を閉める。


 また来週。


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