4月10日『また来週』
閉館まで三十分。
西日がカウンターを琥珀色に染めている。書架の影が閲覧室の奥まで伸びて、天井の梁に届いていた。
◇
最初の来客は、小柄な少女だった。丸い耳が、肩まで届く髪から覗いている。
「あの、これ、返します」
ミルが差し出したのは、古い絵本だった。見覚えがある。禁帯出の棚にあるはずの一冊だ。
「こちらは」
「……間違えて、持って帰っちゃって」
ミルは目を逸らした。嘘が下手な子だ。禁帯出の本を「間違えて」持ち出すことはできない。そもそも貸出処理をしていないのだから。
「間違い、ですか」
「うん」
私は絵本を受け取った。ページに折り目はない。丁寧に扱われた形跡がある。
「おねえちゃんに、見せたかったの」
少女の声が、小さくなった。
「おねえちゃん、寝たきりで。……この絵本が好きだったってお母さんが言ってて。でも……」
黙って持ち出すしかないと、この子は思ったのだろう。姉の笑顔が見たくて。
「お姉さんは、喜んでくれた?」
「うん。すごく」
私はカウンターの奥、低い棚から別の一冊を取り出した。同じ表紙。ただし、少し新しい。背表紙の色がまだ鮮やかで、角も尖っている。
「複写版です。こちらなら貸出できますよ」
ミルの目が、大きく見開かれた。
「はじめから、これを」
「ええ。声をかけてくれれば」
少女は、泣きそうな顔で笑った。
「ごめんなさい。……ありがとうございます」
「また来週ね」
◇
扉が、勢いよく開いた。
「おう! 司書さん!」
大柄な男が、ずかずかと入ってくる。口元から覗く牙が、にかっと笑う形に曲がった。鋳造工場の夜番頭だ。煤で黒ずんだ作業着が、仕事帰りであることを物語っている。
「返しに来たぞ!」
本が、カウンターに「どさり」と置かれた。
「お静かに願います」
「おっと、すまんすまん」
声の大きさは変わらない。奥の閲覧席で、白髪の老人が迷惑そうに顔を上げた。
「難しすぎたみたいでな! あいつ、三ページで寝ちまったらしい!」
彼が部下のために借りた技術書のことだ。
「でもな、あいつ言うんだよ」
ほんの少しだけ、声が落ちた。
「『番頭さんが俺のために選んでくれた』って。読めなかったのに、嬉しかったんだと。おかしいだろ?」
そう言って、がははと笑う。腹の底から響くような笑い声だった。不器用な親切が、不器用なまま届いていた。
「今度は絵が多いやつにする! どこだ?」
私は児童書の棚を指差した。
「よし! 今日は給料日だ! 帰りに一杯やるぞ!」
声は最後まで大きいままだった。扉が閉まっても、通りを歩く足音と笑い声がしばらく聞こえていた。でも、来週もきっとこの調子で来るのだろう。
◇
閉館十五分前。大柄な夫婦が入ってきた。クラウス夫妻だ。
夫の方が、深々と頭を下げる。立派な角が、床に届きそうなほど深い。
「このたびは、真に申し訳御座いませんでした」
差し出されたのは、濡れた本だった。
「通り雨に遭いまして。弁償が必要でしたら」
「あなた、まず本を渡して」
妻が、小声で促す。
私は本を受け取り、状態を確認する。表紙は濡れているが、中身は無事だ。
「乾かせば問題ありません。お気になさらず」
「寛大なご対応、ありがとうございます」
「堅いわね、あなたは」
妻が呆れたように言う。
「そもそも、傘を忘れたのはあなたでしょう」
「君が『今日は降らない』と言ったからだ」
「『たぶん』と言ったはずよ」
「『たぶん』は聞こえなかった」
「いつも都合の悪いことだけ聞こえないのね」
空気が険しくなる。私は少し身構えた。
「まあ、いいわ」
妻が、ふっと息を吐いた。
「あなたが風邪をひかなければ」
「君の方こそ」
夫が、妻の肩にそっと手を置いた。妻が、その手に自分の手を重ねる。さっきまでの険悪さが、嘘のように消えていた。
「また来週、取りにいらしてください」
二人は肩を寄せ合い、連れ立って出ていった。夫の大きな角が、扉の枠をぎりぎりで通り抜ける。妻がその角をよけるように小さく首を傾けた。長年の癖なのだろう。
夕日の中に消えていく二つの影は、どこか楽しそうに見えた。
◇
閉館五分前。
金属の足音が近づいてきた。
潜水服のような装備に身を包んだ、小柄な影。丸窓のついたヘルメットの中で、水がゆらゆらと揺れている。その奥に、緑がかった滑らかな肌と、大きく横に広がった口元が見えた。
私は「貝殻さん」と呼んでいる。
彼らの種族には、眠りの中で知識を共有する力があると聞く。本を読む必要など、ないはずだ。なのに、毎週金曜日に現れる。
その客は、いつものように無言で館内を一周した。そして、カウンターの前で立ち止まる。
金属の手袋が、まず一冊の本を差し出した。先週貸した風景画集だ。水滴ひとつついていない。
「ありがとうございます。いかがでしたか」
返事はない。ただ、丸窓の奥で瞼のない目がゆっくりと細まった。
続いて、懐から小さな貝殻を取り出した。渦を巻いた、淡い桃色。
「こちらに飾らせていただきますね」
窓際の棚を指差す。青や白や橙色の貝殻たちが、西日を受けて光っている。
私はカウンターの下から、別の風景画集を取り出した。今度は草原と夕焼けの空。
「どうぞ」
丸窓の奥で、大きな目がさらに見開かれた。瞼のない瞳が、じっと表紙を見つめている。
金属の手袋が、そっと表紙に触れた。水の中からは決して見ることのできない景色。言葉にできない色彩。
貝殻さんは、本を胸に抱くようにして受け取った。
小さく頭を下げて、去っていく。
◇
午後六時。閉館。
扉を閉める。
また来週。




