4月11日『勲章』
週末の午前、郷土資料室に父子が現れた。
若い父親は三十代前半だろう。身なりは質素だが仕立ての良い生地、背筋の伸びた姿勢――職人の街であるここでは珍しい、どこか別の場所で教育を受けた者の佇まいだ。五歳ほどの息子は、父の手をぎゅっと握ったまま俯きがちに歩いている。
月に数回来る常連だ。私は会釈を返す。
「今日は暖かくなりましたね」
「ええ、ようやく春らしくなってきました。この子も少し外に出やすくなったようで」
息子が父親の後ろに半分隠れながら、私の方をちらりと見て小さく会釈をする。内気な子だ。何度も顔を合わせているが、まだ私には慣れていない。
父子はいつもの窓際の閲覧席に荷物を置くと、書架へ向かった。
「今日は何を読もうか」
「えほん。おりょうりの」
父親が微笑む。二人は並んで書架の前に立ち、父親が棚を見上げ、息子はその足元で背表紙を眺めている。
「父様」
息子が上段を指差した。天井近くの棚だ。午前の光が書架の上だけを照らしていて、革装丁の背表紙が鈍く光っている。
「あれ、きれい」
古びた革装丁の本だった。『宮廷料理の技法と作法』――表紙には重なり合う三角が星を成す紋章が刻まれている。この街ではあまり見かけない教会の意匠だ。
父親の表情が変わった。懐かしさと、かすかな痛みの混じったような。私は以前、彼がかつて宮廷に仕えていたと聞いたことがある。息子が生まれたのを機に、妻の実家であるこの街の料理店を継いだのだと。
「これは」
父親が背伸びをして上段の本に手を伸ばす。指先が背表紙に触れた瞬間――滑った。
革装丁の重い本が落下する。
息子が動いた。内気で臆病な子だが、このときは違った。父親の大切なものだと感じ取ったのかもしれない。小さな手が、落ちてくる本に向かって伸びる。
そのとき、大きな手が同時に伸びてきていた。
息子の小さな手と、その手が――床すれすれで、本の下で重なった。
息子が顔を上げる。巨大な影が目の前にあった。
二メートルを超える巨躯、厚い胸板、節くれだった太い腕。白髪交じりの剛毛に深く刻まれた皺。長年鍛冶場に立ち続けてきた者の貫禄がある。襟元には歯車の紋章――この街の職人に多い意匠だ。
息子が息を呑み、小さな体が固まった。
「おっと」
老職人が手を引いた。本は息子の手の上に残る。
「すまんすまん、驚かせてしもうたのう。坊、怪我はないかい?」
声は低く太いが、響きには年長者の穏やかさがある。息子は答えられない。本を抱えたまま、駆け寄った父親の腕の中に逃げ込んだ。
「この本を取ろうとしたんじゃが、先に手を出しとったのは坊の方じゃな。儂の負けじゃわい」
「いえ、こちらこそ。落としてしまって」
「がはは、気にせんでええ。本が無事ならそれでええんじゃ」
父親が本の表紙を見て、老職人を見た。
「この本を、お探しでしたか」
「おう。丘の上の教会から儀式用の煮込み鍋を作ってくれと頼まれてのう。どういう料理に使うのか知りたくて来たんじゃわ」
「鍋を作る方なんですね。私は使う方です」
「ほう、料理人か。こんな下町じゃ珍しいのう、あんたみたいなんは」
老職人の目が父親の服装を見る。それから本の表紙――星の紋章。
「ええ、少数派ですね。でも、本を読みたい気持ちは同じです」
「違いないのう」
老職人が父親の隣に腰を下ろした。床に座り込む形だ。息子はまだ父親にしがみついているが、顔だけは老職人の方を向いていた。
「よろしければ、一緒にご覧になりませんか。煮込み料理と鍋の関係について詳しく載っています」
「おお、ありがたいのう」
息子が老職人の手をじっと見ている。無数の火傷の痕。
「おじいさんの手、父様と違う」
「火傷の痕じゃわ。鍛冶をやっとるとのう、こうなる」
「痛くないの?」
「最初は痛かったわい。でも今はもう慣れた」
老職人は手のひらを見せ、それから襟元の歯車に触れた。
「儂らはのう、自分で積み上げたもんを誇りにするんじゃ。この手は、儂が五十年働いてきた証よ。勲章みたいなもんじゃのう」
「くんしょう」
息子の目が少しだけ輝いた。
◇
父子が図書館を出ようとしたとき、老職人が声をかけた。
「坊。うまい飯ってのはのう、人を幸せにするもんじゃ。父ちゃんの料理、たんと食うんじゃぞ」
息子が小さく頷いた。声は出なかったが、頷いた。
「あんたも。ええ鍋があれば、ええ料理が作れる。今度うちの工房に来んさい」
「ありがとうございます」
老職人が手を振る。火傷の痕だらけの大きな掌が、ゆっくり揺れた。息子は迷った末に、小さな手をほんの少しだけ振り返した。
二人が手をつないで出ていく。
「父様、あのおじいさん、大きかったね」
「そうだね。怖かったかい?」
「うん。でも、手がかっこよかった」
「そうだね。一生懸命働いてきた証だって」
「父様の手にも、くんしょうある?」
父親は自分の手を見た。火傷の痕はない。しかし、包丁を握り続けてきた指の形がある。彼はその手で胸元の星の紋章に触れた。老職人がそうしたように。
「あるよ。授かったもの、積み上げたもの。どちらも、勲章だ」
私は窓から、その背中を見送る。
先ほど見た二つの仕草が目に残っている。
歯車は回り続けることで力を生む。星は天から降り注ぐ。
春の朝、温かな時間。




