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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
11/25

4月11日『勲章』

挿絵(By みてみん)

 週末の午前、郷土資料室に父子が現れた。


 若い父親は三十代前半だろう。身なりは質素だが仕立ての良い生地、背筋の伸びた姿勢――職人の街であるここでは珍しい、どこか別の場所で教育を受けた者の佇まいだ。五歳ほどの息子は、父の手をぎゅっと握ったまま俯きがちに歩いている。


 月に数回来る常連だ。私は会釈を返す。


「今日は暖かくなりましたね」


「ええ、ようやく春らしくなってきました。この子も少し外に出やすくなったようで」


 息子が父親の後ろに半分隠れながら、私の方をちらりと見て小さく会釈をする。内気な子だ。何度も顔を合わせているが、まだ私には慣れていない。


 父子はいつもの窓際の閲覧席に荷物を置くと、書架へ向かった。


「今日は何を読もうか」


「えほん。おりょうりの」


 父親が微笑む。二人は並んで書架の前に立ち、父親が棚を見上げ、息子はその足元で背表紙を眺めている。


「父様」


 息子が上段を指差した。天井近くの棚だ。午前の光が書架の上だけを照らしていて、革装丁の背表紙が鈍く光っている。


「あれ、きれい」


 古びた革装丁の本だった。『宮廷料理の技法と作法』――表紙には重なり合う三角が星を成す紋章が刻まれている。この街ではあまり見かけない教会の意匠だ。


 父親の表情が変わった。懐かしさと、かすかな痛みの混じったような。私は以前、彼がかつて宮廷に仕えていたと聞いたことがある。息子が生まれたのを機に、妻の実家であるこの街の料理店を継いだのだと。


「これは」


 父親が背伸びをして上段の本に手を伸ばす。指先が背表紙に触れた瞬間――滑った。


 革装丁の重い本が落下する。


 息子が動いた。内気で臆病な子だが、このときは違った。父親の大切なものだと感じ取ったのかもしれない。小さな手が、落ちてくる本に向かって伸びる。


 そのとき、大きな手が同時に伸びてきていた。


 息子の小さな手と、その手が――床すれすれで、本の下で重なった。


 息子が顔を上げる。巨大な影が目の前にあった。


 二メートルを超える巨躯、厚い胸板、節くれだった太い腕。白髪交じりの剛毛に深く刻まれた皺。長年鍛冶場に立ち続けてきた者の貫禄がある。襟元には歯車の紋章――この街の職人に多い意匠だ。


 息子が息を呑み、小さな体が固まった。


「おっと」


 老職人が手を引いた。本は息子の手の上に残る。


「すまんすまん、驚かせてしもうたのう。坊、怪我はないかい?」


 声は低く太いが、響きには年長者の穏やかさがある。息子は答えられない。本を抱えたまま、駆け寄った父親の腕の中に逃げ込んだ。


「この本を取ろうとしたんじゃが、先に手を出しとったのは坊の方じゃな。儂の負けじゃわい」


「いえ、こちらこそ。落としてしまって」


「がはは、気にせんでええ。本が無事ならそれでええんじゃ」


 父親が本の表紙を見て、老職人を見た。


「この本を、お探しでしたか」


「おう。丘の上の教会から儀式用の煮込み鍋を作ってくれと頼まれてのう。どういう料理に使うのか知りたくて来たんじゃわ」


「鍋を作る方なんですね。私は使う方です」


「ほう、料理人か。こんな下町じゃ珍しいのう、あんたみたいなんは」


 老職人の目が父親の服装を見る。それから本の表紙――星の紋章。


「ええ、少数派ですね。でも、本を読みたい気持ちは同じです」


「違いないのう」


 老職人が父親の隣に腰を下ろした。床に座り込む形だ。息子はまだ父親にしがみついているが、顔だけは老職人の方を向いていた。


「よろしければ、一緒にご覧になりませんか。煮込み料理と鍋の関係について詳しく載っています」


「おお、ありがたいのう」


 息子が老職人の手をじっと見ている。無数の火傷の痕。


「おじいさんの手、父様と違う」


「火傷の痕じゃわ。鍛冶をやっとるとのう、こうなる」


「痛くないの?」


「最初は痛かったわい。でも今はもう慣れた」


 老職人は手のひらを見せ、それから襟元の歯車に触れた。


「儂らはのう、自分で積み上げたもんを誇りにするんじゃ。この手は、儂が五十年働いてきた証よ。勲章みたいなもんじゃのう」


「くんしょう」


 息子の目が少しだけ輝いた。


           ◇


 父子が図書館を出ようとしたとき、老職人が声をかけた。


「坊。うまい飯ってのはのう、人を幸せにするもんじゃ。父ちゃんの料理、たんと食うんじゃぞ」


 息子が小さく頷いた。声は出なかったが、頷いた。


「あんたも。ええ鍋があれば、ええ料理が作れる。今度うちの工房に来んさい」


「ありがとうございます」


 老職人が手を振る。火傷の痕だらけの大きな掌が、ゆっくり揺れた。息子は迷った末に、小さな手をほんの少しだけ振り返した。


 二人が手をつないで出ていく。


「父様、あのおじいさん、大きかったね」


「そうだね。怖かったかい?」


「うん。でも、手がかっこよかった」


「そうだね。一生懸命働いてきた証だって」


「父様の手にも、くんしょうある?」


 父親は自分の手を見た。火傷の痕はない。しかし、包丁を握り続けてきた指の形がある。彼はその手で胸元の星の紋章に触れた。老職人がそうしたように。


「あるよ。授かったもの、積み上げたもの。どちらも、勲章だ」


 私は窓から、その背中を見送る。


 先ほど見た二つの仕草が目に残っている。


 歯車は回り続けることで力を生む。星は天から降り注ぐ。


 春の朝、温かな時間。

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