6月21日『来訪者』
今日は朝から街が沸いている。
遠くから金床を叩く合奏の音。三台が同時に打たれた瞬間、透き通った和音が空気を震わせ、間をおいて拍手が巻き起こる。
煙突から立ち昇る煙が、快晴の空に太い線を引いている。鍛冶ギルドが総出の祭りに、通りに人が溢れている。
ハンスの六角形の鉄飾りは、もう御柱に掲げられただろうか。ヨハンナの人形劇の舞台は広場に立っただろうか。カミラの白葉草の焼き菓子は、今頃あちこちで配られているのだろうか。
みんな、外にいる。ここには、私だけがいる。図書館には、誰もいない。
十時過ぎ。音もなく扉が開いた。
足音。軽くて、だが一歩ごとの間隔が正確に。フードを被った男が閲覧席に座った。
少しの間を置いて、『彼』がフードを外す。
緋色の翼。琥珀の左目。右目には革の眼帯。
あの頃より頬が削げて、顎の線が鋭い。だが目の色は変わらない。琥珀色。夕暮れの色。
「……お久しぶりですね、先輩」
◇
穏やかな声だった。だが穏やかさの底にずしりとした重さがある。
「この日に来るのは、少し卑怯でしたかね。でも――確かめたいことがあった」
私はカウンターの向こう側に座ったまま動かなかった。
「手紙は読んでいただけましたか。それと、あの紙切れ。『よい祭りを』。わかりました?」
「ええ。引き出しに入っていますよ」
「よかった」
死別であれば喪が明ける日がある。だが生きている人間との別れには、終わりの線がない。手紙が届くたびに線が引き直される思いがする。
ペディオの左目が、図書館の中をゆっくりと見回しながら、私に向かって話しかけた。
「変わらないですね、あなたは」
「……あなたの方は、随分と変わったようですね」
ペディオは笑った。歪んだ、だが温かい笑み。
「はい。そうかもしれません」
それきり、どちらも続きを言わなかった。祭りの歓声が窓から入ってくる。二人の間の沈黙を、外の音が埋めていた。
琥珀色の左目が窓のほうを向く。合奏が、またひときわ高くなった。
「先輩は覚えていますか。姐さんの。音楽を聴くのが好きだったこと」
「……ええ。目を瞑って耳を立てて、拍子を数えて」
「ふふ。あれ、拍子を数えるんじゃないんですよ。振動を聴いているんです。地面から伝わる振動を、足の裏で感じてる」
声が少しだけ柔らかくなった。
「……あの頃の僕は――おそらくですが、幸福だったんだと思います。知らないという事実が、幸福だった。姐さんに怒られ、先輩に笑われて。……それだけで十分だった」
野営の焚き火を思い出す。翼が焚き火の光を受けて、紫の羽根の一枚一枚が星明かりを含んでいるように見えた。あの光を、今の緋色の翼には見つけられない。
「姐さんは元気してますか?」
「……ええ。元気です」
「保安官……。ふふ、お似合いですよね」
笑った。今度は先ほどより少しだけ自然だった。
◇
姿勢を正した。声の色が変わる。ここからが本題なのだとわかった。
「この図書館の奥に、手がかりがあるはずです。僕はどうしても、それを読まなければならない」
祭りの合奏が止んだ。次の曲に移る前の、一瞬の空白。
その空白の中で引き出しを開ける。小さな紋章の鍵。
「いいでしょう」
ペディオの左目が揺れた。
「……しかし、条件があります。閲覧のみ。そして、私が立ち会います」
「……構わないんですか」
「わかりません。しかし――あなたが一人で、扱いきれるほどの物かどうか。それは、あなたが判断してください」
四階への階段を上る。鍵穴のない鉄壁に触れる。冷たい。夏至の陽光が届かない場所。
祭りの音は、もう聞こえない。紋章を押し当てると金属の擦れる音が沈黙に鋭く響いた。
重々しく扉が開くと、そこは小さな部屋だった。
窓は一つもない。燭台にぼうっと灯りがともり、青い光が狭い空間を満たす。三つの書架には、古ぼけた本と書簡が積み上がっている。埃とカビの匂いの奥に、ほのかに甘く、金属を含んだ匂い。
中央の書架には、分厚い本が一冊だけ置かれていた。表紙には千年前の文字。ペディオが手を伸ばした瞬間、文字が微かに光ったように見えた。
『それ』は読む者を待っていた。
◇
指が古代文字を追い始める。琥珀色の目が左から右へ行を追う。
私は一歩後ろに立って、その横顔を見ている。……あの頃と変わらない目。
ペディオの指が止まった。
「……先輩」
風のないはずの部屋で、燭台の灯りが静かに揺れた。ペディオの目がページから離れ、ゆっくりとこちらを向く。八年前は、見送ることしかできなかった。今日は、同じ部屋にいる。同じ沈黙の中にいる。
その視線が私の髪を、一瞬だけ掠めた。




