6月20日『風の寄り道』
明日は鍛冶祭。
カウンターに着くと、玄関前に見慣れぬ荷車が二台停まっていた。この時期には、遠方の都市から風のように人が吹き込んでくる。
◇
最初に声が聞こえた。正確には、声量で場所が分かった。
「うるさいね、マレフじゃこの形で通じるんだ」
一階カウンター付近。硬い毛並みの中年女性が仕入れ帳を広げている。日焼けした首筋に短い髪が張りつき、荷運びで太くなった指が帳面をめくっていた。この街の鍛冶衆と同じ血を引く体つきなのに、鍛冶の手ではなく商人の手をしている。
隣で三角の耳を忙しく動かしている若い青年が、鼻を仕入れ帳にぐいっと近づけた。
「姐さん、それ『鋼』じゃなくて『銅』ですよ。字が違いやす」
「字、小さいんだよ。目が疲れてるだけさ」
青年が書架から『鍛冶用語辞典』を持ってくる。女性が覗き込み、固まった。この街特有の鍛冶文字の意匠が、他都市の商人には難物らしい。
「お手伝いしましょうか。鍛冶文字は独特で、他の都市の方は皆さん苦労されます」
ロッテと名乗ったその金物商の肩から、ようやく力が抜けた。弟子のテオの三角耳が、勝ち誇ったように立っている。
仕入れ台帳を確かめて、私は少し言葉を選んだ。
「……あの、これですと『十個』ではなく『百個』の注文になりますよ」
ロッテの視線が一瞬泳いだ。
「はん。百個あれば百個売ればいいのさ!」
テオが吹き出し、ロッテがその頭を叩いた。叩かれた耳がぺしゃんと倒れて、すぐまた跳ね上がった。
◇
同じ頃、二階の閲覧室には別の空気が流れていた。
穏やかな目つきの青年が手帳を胸に抱えて、丁寧に口を開く。
「この方はプセウドティの交易記録官です。声帯の構造上、発声が難しいので、私が代わりにお話しします」
通訳というより、言葉を橋渡しする学徒のような口ぶりだ。
ヨナと呼ばれた記録官が、無言で記録帳を開いた。低い背丈。陸上用のスーツの表面に水滴が浮いている。大きな目がゆっくりと瞬く。貝殻さんの姿が、不意に重なった。
同じ水の民。同じように声を持たない。貝殻さんは語れないのではなく、語らないことを選んでいる。静かに読み、跡を残さず帰っていくあの方の沈黙には、自分を閉じておく穏やかな意志がある。
ヨナの場合は少し違う。語れない代わりにペンを握っていた。
私が交易品目録を差し出すと、ヨナはその手袋で数字をなぞって追い始めた。動くものをよく追うその大きな瞳が、静止した活字の上では焦点を探すように揺れる。なぞることで、止まった文字を動きに変えて読み取っている。
通訳の青年が小声で言い添えた。
「二十年間、一日も欠かさず記録をつけています。港に入った船の数、積荷の種類、色、形まで……」
貝殻さんが残すのはあの贈り物だけだ。ヨナは違う。書いた跡で、自分がここにいたことを刻みつけていく。声のないふたり。ひとりは足跡を残すように生き、ひとりはすべてを刻み込みながら生きている。
ペンが走り始めた。
記録帳の余白に細かなスケッチが見えた。港の風景。海底に沈む遺跡の輪郭。
ページの間から、乾いた花弁がひとひらこぼれた。
◇
一階の書架の向こうから、歌声が漏れてきた。
茶褐色の羽根を持つ若い女性が、楽器の図版をめくりながら口ずさんでいる。ページをめくるたび羽先が震え、書架の埃がふわりと舞った。
「お客様、お声をもう少し――」
「あら、ごめんなさい。でも、楽器は鳴らしてみないと分からないでしょう? 旋律を当てはめて品定めしてるのよ」
アエリアから来た楽器商で、ピーナと名乗った。歌で楽器を真似て、善し悪しを量るのだという。
「この音域と配列、あたしの街の古い童謡と同じね――この街と繋がっているのかしらね」
二つの都市の音楽が根を同じくしている証かもしれない。ピーナはただ嬉しそうに図版と楽曲集を見比べはじめた。自然と口ずさむ楽器のメロディが、一階の書架を包むように流れた。
◇
午後。
中庭の植木鉢に母娘が見入っていた。
「この子さみしそう。お友達がいない」
「森では木は一本じゃ育たない。根が絡み合って、お互いを支えるのよ」
母親のミレーヌはインニクタティの木工職人。この街でもよく見かける小さな種族のはずだが、ずんぐりと太い体つきをしている。太く短い指の爪の間に、古い木屑の跡が染みついている。娘は母を縮めたような丸い体に丸い目で、あちこちの衣嚢をドングリと葉っぱで膨らませていた。
その様子を見ていた私に、娘がドングリを一粒取り出して渡してきた。
「この子をとなりに植えてあげたい」
「ええ。空いている鉢がありますので、こちらに」
娘がドングリを埋めて、故郷の子守唄を歌い始める。音程が少しずれているがミレーヌは直さなかった。太い指で、ただ娘の肩に手を置いた。
◇
三階の技術資料室では、声が大きくなりかけていた。
「スケロルムの電気炉なら同じ鋼を三十秒で成形できます。なぜこの街は手打ちに拘るんですかね」
眼鏡の奥の赤い瞳が熱を帯びている。長い耳がぴんと立ち、若く姿勢がいい。機能的な服のあちこちからメモ用紙の端が覗いていた。マーレンという記者らしい。
向かいに座る壮年の男が、本を閉じて振り向いた。鉱物鑑定士ガブリエル。がっしりした体格に深い皺。日焼けした大きな手で卓を押さえ、静かに言った。
「速さが全てなら、なぜ石は百年、千年かけて結晶になる」
「データを見てくださいよ。効率、コスト、歩留まり――」
「数字は嘘をつかん。だが、数字で語れんこともある」
「お二人とも――」
同時に「すみません」。
マーレンが小声で食い下がる。
「……でも、データは大事でしょう?」
ガブリエルがマーレンのメモ帳を指さした。
「お前さんの、それ。一ページに三十行、誤字無し、図面まで手書き。……そいつは職人の手さ。お前さんも手打ちをやっとるんだ。別の場所で。気づいとらんだけでな」
ペンを持つ手が止まった。長い耳が、怒りでも恥でもない不思議な角度に傾く。
◇
夕方。ガブリエルが一階に降りてきた。
ロビーの石畳の前で足を止め、屈んで床に触れた。指先が微かに震える。
「いい石だ。二百年ものの、良い声が出とる」
「お分かりになるのですか」
「二百年分の足音が染み込んでいる。メーダキオルムでは、こういう石を記憶石と呼ぶ」
「……この床も、記憶を持っていると思いますか」
「もちろん、持っとるとも。お前さんの足音も、声も、全てな」
床の隅のひび割れに目を留め、鑑定士の眼差しが一瞬鋭くなった。だがすぐに表情が緩む。
「心配ない。あと百年は持つ。石にとっちゃ、ひびも勲章のうちだ」
◇
閉館三十分前。六つの組が、いつの間にか一階に集まっていた。
テオが壁の世界地図を見つけて声を上げる。
「ここがうちの街だ。こっちがここ。こんなに近いんだ――」
六つの組がそれぞれ地図を見上げる。
マーレンがメモ帳を閉じて、初めて周囲を見渡してから、地図を見上げた。
カウンターには貸出票が六枚。
棚に本を戻した後、中庭の鉢に乾いた花びらを添えた。




