6月19日『歯車城の冒険』
荷物が先に入ってきた。
巨大な木箱を両腕で抱えた女性が、扉の幅ぎりぎりで身をねじっている。木箱の角がぶつかるたびに、中でからからと乾いた音がする。
後ろから溜息が聞こえた。
「だから、入口の幅を確認してって言ったじゃない」
ヴィオだ。以前、楽器の湿気対策で来館した方。
木箱がカウンターにどんと置かれる。拍子に蓋が跳ねて、指人形がばらばらっと転がり出た。兵隊、王様、妖精、踊り子。厚い指が一体ずつ拾い上げていく。体の大きさと手つきの繊細さがまるで釣り合わない。
「ヨハンナと申します。人形遣いをやってて、人形劇をやりたいの。この街に伝わる物語で、何かいい題材になりそうなものって、ありません?」
頭の両脇から覗く短い角がピンと上向いた。
一階の閲覧室では、トビアスがいつものように絵本を開いていた。
◇
二階。
郷土資料と児童書が並ぶ棚。ヨハンナが棚の前に立つと通路が半分塞がり、ヴィオが後ろから覗き込むともう誰も通れない。頭がぶつかりそうになるのを、互いに慣れた仕草で避けている。
一冊目。『最初の剣』。
鍛冶の神が剣を打ち、その一撃で大地が割れたという建国伝承の神話だ。挿絵には岩をも砕く神の逞しい腕が描かれている。
「内容が重すぎる。それに、槌を振りかぶる場面ばっかりで、あたしの指がもたないわ」
二冊目。『小人と職人たち』。
地下に住む小人が道具をこっそり借りて、夜中に見事な細工物を残していくという民話だ。ヨハンナは表紙の小人を見て、自分の手のひらを広げた。
「あたし。この手丸見えでしょ? お客さんは小人じゃなくて、この手しか見ないわよ。この指で繊細な物語は出せないわ」
三冊目。『ツノを持つ子の旅』。
生まれつき額に小さなツノを持つ子どもが、自分と同じ姿の誰かを探して旅に出る話。ヨハンナが自分の額に触れた。厚い指先が、角の根元をそっとなぞる。
「……悪くないわ。けどこの話は、大勢の前じゃなくて、一人に向かって語るもの。祭りの舞台は広すぎるわね」
四冊目。『飛べると信じた石工』。
塔の頂上から飛ぼうとした石工の物語だ。自ら翼を作り、街中の人が見上げるなか塔の縁に立ち、跳んだ。結末は書かれていない。
「うーん。結末のない話を、子どもの前ではやれないわ。やるなら結末を足さなきゃ。でも、それはこの話への裏切りよ」
ヨハンナが丁寧に本を元の場所へ戻した。手元には何も残っていない。
「降りようか」とヴィオ。
「芸術に締め切りはないわ」
「あるわよ。鍛冶祭はもう明後日よ」
ヨハンナが棚の端に額をこつんと当てた。額の上の角が棚板を叩いて、こんと小さな音がした。
「……降りる」
◇
一階に降りてきたヨハンナが、カウンターに両肘をついて唸っている。
ふと、視線が閲覧室の方に向いた。
窓際の一番小さな席。本を膝に乗せて、表紙の歯車を指でなぞっているトビアスに気が付いたらしい。
「ねえ坊や、それ。何を読んでるの」
トビアスが顔を上げた。大きな黒い瞳がぱちぱちと瞬いて、ヨハンナの顔を見て、手に持ってる箱を見て、またヨハンナの顔に戻った。
「兵隊さんがお城をのぼるお話なんだ」
背表紙が褪せて角が丸い。何度も何度も読まれた本の姿。
ヨハンナが歩み寄り、ページを覗き込んで、しばらく黙ったまま目を動かしてから顔を上げた。
「――これよ」
『歯車城の冒険』
片足のブリキの兵隊が自分で乗り物を作り、歯車の城を冒険する物語。古い翻案童話だ。この子が毎週読んでいる本。
「おばちゃんも、この本好き?」
「そうね、好き。今、好きになった」
ヨハンナが立ち上がって木箱を開けた。
「練習にお客さんがいると張り合いが出るのよ。見てくれる?」
トビアスが大きくうなずいた。
◇
一階閲覧室の隅が、即席の稽古場になった。
ヴィオがトアラのケースを開く。飴色の横笛。歌口の縁が長年の息で丸みを帯びている。「形だけね」と言って、膝の上に置いた。
ヨハンナが人形を指に嵌める。大きな手に小さな人形が五体。兵隊、王様、妖精、番人、踊り子だ。
第一幕、城門。
片足の兵隊が門をくぐる――はずが、ヨハンナの腕が大きすぎた。兵隊は門を飛び越えてしまった。思わずヴィオが声を上げた。
「くぐるんじゃないの? 飛び越えちゃだめじゃない」
トビアスが声を上げて笑った。
第二幕、ネズミの王との対決。両手に構えたら力が入りすぎて、尻尾が兵隊の顔に当たった。仰向けに倒れて見せる。
「これは、ネズミの不意打ちよ」
「ネズミずるい!」とトビアス。
第三幕、番人。ヨハンナが声色を低くした。
「『止まれい。この城の歯車は、夢をあらためるためにある――』」
と言いかけて地声に戻る。
「ねえ、この番人って悪い奴かな? 別に、ただ規則を守ってるだけよね?」
「うーん。悪い奴じゃないけど、邪魔者って感じ。門番ってそうじゃない?」とヴィオ。
トビアスが言った。
「でも、がんばったら通してくれるよね?」
ヨハンナが笑う。
「そうね。頑張ったらね」
第四幕、歯車の精霊の贈り物。小道具を掴もうとして木箱をひっくり返してしまった。人形が床に散らばり、二人の太い指が同時に伸びて頭がぶつかった。
「痛っ」
「あなたが前に出るからじゃない」
トビアスの笑い声が天井に跳ねた。
第五幕、城の頂上。
兵隊が窓から街を見下ろす場面で、ヨハンナの手が止まって目を閉じた。
閲覧室が静かになる。
「――ここが一番大事なの。ずっと窓から外を眺めていた兵隊が、歯車の階段を登り切って一番高い窓から街を見下ろす。同じ窓なのに、見えるものが変わる」
人形を箱にしまった。
「あたしは見せる側。窓の向こうに何が見えるかは、お客さんが決めること」
◇
図書館のすぐ手前には馬車が停まっていた。荷台の片側が開くと小さな舞台になる仕組みの移動劇場だ。
夕方の光。工房街の煙突から白い煙がゆっくり昇っている。
幕が開いた。
ヨハンナの厚い指が動き始める。さっきとは別人のように滑らかだ。稽古で飛び越えた城門を、兵隊がきちんとくぐり、トビアスが小さく「あっ」と言った。
ネズミの王が立ちはだかる場面。稽古の通り尻尾が当たって、兵隊がぱたりと倒れた。
番人は厳しい顔で門を閉ざす。その目がどこか悲しく見えた。
歯車の精が翼ではなく車輪を贈る。飛べないなら、走ればいい。兵隊が駆け上がっていく。
城の頂上。兵隊が最後の窓にたどり着く。踊り子が傍に立っている。
ヴィオがトアラを唇に当てた。
ここで初めて、笛が鳴った。夕方の空気を細く長く震わせる。乾いた遠い土地の空を思わせる響き。兵隊が窓から街を見下ろす場面に、夕日と音が重なった。
トビアスの瞳が橙色に染まっている。
◇
「おばちゃん。兵隊さんは最後笑ってたかな?」
トビアスがヨハンナを見上げた。
「さあ。どうだったかしら」
「笑ってた。金色だった」
ヨハンナが一瞬だけ目を伏せた。そして大きく笑って、人形を箱にしまう。
「お祭りの本番、ちゃんと見に来てね」
馬車が動き出した。ヨハンナが荷台の扉を閉めようとして、また箱が引っかかっていた。
笛の音色が、通りの角の向こうに遠ざかっていく。
◇
カウンターの引き出しを開ける。トビアスがくれた歯車城の絵。あの日からずっと、ここにある。
絵の中の兵隊は、一本足で立っていた。
今日も、まっすぐに。




