6月18日『葬列』
窓を開けようとして、やめた。
曇り空。昨夜の雷雨の名残で石畳がまだ濡れている。水溜まりに曇り空が映っていた。硝子一枚の向こうに、重い空気の街がある。今日は、その硝子の一枚が妙に厚く感じる。
お茶を淹れた。湯気が窓の方へ流れていく。温かいものは、いつも外に向かおうとする。
九時過ぎに扉が開いた。グラードさんだ。腐海対策の担当官。いつもは分厚い報告書を抱えてくるのに、今日は手ぶらで、そして角が少し下を向いている。
「おはようございます。……今日は、閲覧ではありません」
カウンターの前に立ったまま、館内を何かを確かめるように見回した。書架を、窓を、天井を。そして、静かに頭を下げて、出ていった。
十時過ぎ。低い鐘の音が聞こえた。一つ、二つ――弔鐘だとわかるまでに、少しだけ時間がかかった。
◇
図書館の前の通りを、黒い列が進んでいた。フリアの葬列は静かだ。泣き叫ぶ者は少ない。
先頭に聖遺物教会の歯車と槌を象った紋章。棺を運ぶのは角のある体格の良い者たちだ。棺の上に剣と盾が据え置かれている。警護官の装備品だ。坑道の任務にあたっていた者だろうか。
家族が後ろに続く。母親らしい女性が顔を伏せている――いや、伏せているのではない。棺の高さに目線を合わせている。棺の中の人と、同じ高さで歩こうとしているかのように。
父親らしい大柄な男。そしてその手を握って歩いている小さな子供。時折、きょろきょろと周囲を見る。まだわかっていないのか、わかっていて確かめているのか。どちらなのだろう。
どこかで鳥が鳴いた。列の誰もが顔を上げなかった。鳥だけが、今日が何の日か知らずにいる。
列の中に見覚えのある姿を見つけた。
マティアスさん。あの背筋の良い薬草師が、棺からやや離れた位置を俯いて歩いている。あの人の隣を歩く者はいない。棺に刻まれるのは剣と盾で、薬草師の手ではない。それでも、あの黄色い指先だけが知っている重さが確かにある。
「――それが私の仕事です」
あの日の声が蘇った。
フェイだ。今日は耳が伏せていて、いつものせわしない動きがない。その半歩後ろをザラが静かに歩いている。制服姿で背筋を伸ばしている。いつもの砕けた立ち姿ではない。
もうすぐ自分の部隊を率いる彼女。部下一人一人のために選んだ金属の紋章を、今日の棺の人も首から下げていたのだろうか。
列の後方に、さっきの大きな背中があった。グラードさん。角がさらに深く垂れている。図書館が『いつも通りであること』を確かめに来た理由が、今わかった気がした。
窓の下の通りが別の風景に重なる。湿った石畳が、透明な地面に変わる。黒い列が、声のない列に。棺ではなく、布に包んだ一人の若者を運んでいるあの姿に――。
◇
あの後。負傷した他の発掘隊の者たちと一緒に、ペディオを担架に乗せて歩いた。意識はあるが立ち上がることができない。若い学者が自分の上着をペディオの翼にかけようとして、途中でやめた。どこに触れたらいいのかわからなかったのだろう。
結晶化した木々が道の両側に並ぶ。透明な幹が曇り始めた空を映して灰色に染まっていた。夏だったが、森の中はひどく冷たく感じた。吐く息が白く見えた気がした。あの日の喪失の冷たさを、八年経った今も身体が覚えている。担架を持つ手が震えていたのは、重さのせいではなかった。
翼が視界の端にある。かつて紫だった羽根。風を纏うはずの翼が――。
ペディオが口を開いた。
「先輩。僕……どうなっていますか」
答えられなかった。
「見えないんです。目が、まだ目が見えなくて」
声が震えていた。あの子の声は、いつもどこか楽しげに跳ねていた。古い文字を読み解いたときも、宝の話をしたときも。今は、その声が地面を這って伝わる。
「大丈夫」と言うことはできた。優しい嘘を一つ、添えることはできた。だが――あの子の一族にとって翼の色は血統の証だ。それが失われたことの意味は私にもわかっていた。嘘の分だけ傷が深くなる。
私の口は最後まで動かなかった。
◇
それから数日。ペディオが拠点を発つ日が来た。
彼は一度も振り返らなかった。深紅の翼を背負ったまま、そして広げないままに。軽やかに空を飛んだ彼の翼が、地面に近い位置でぶら下がるように揺れている。
私はその背中に声をかけようとして、けれど、何と言えばいいのかわからなかった。「待って」も「頑張って」も嘘になる。喉まで出かけた言葉を、飲み込むしかなかった。
背中が小さくなって、消えていく。最後に見えたのは、燃えるように深く鮮やかな緋色だった。
あれが――三人で過ごした時間の、最後の場面になった。
◇
窓の外。葬列はもう見えない場所まで遠ざかっている。
通りに人が戻り始めている。あの日のあとも次の朝が来て、その次の仕事があった。
引き出しの中。あの日、声をかけられなかった背中から届いた手紙。
お茶はもう冷めていた。カウンターの隅に、グラードさんの気配がまだ残っている。ここが、いつも通りであること。それを確かめに来る人がいる。
窓はまだ開けていない。




