6月17日『窓の下の合奏』
水曜日。蒸し暑い。夏至まであと四日。
今日は開館と同時に――誰も来ない。鍛冶祭の予行演習日だ。街が丸ごと外に出ている。窓の外、遠く広場に立ち上がる鉄の御柱の姿がみえる。
と思ったら、一人だけやって来た。
「鉄飾りの図案を描きたいんす」
ハンスだった。二階閲覧席の隅で黙りこくり、真剣な表情で紙の上に鉛筆を走らせていた。
昼過ぎ。二階の窓を開けて顔を出すと、通りの中央に金床が三台、周囲に槌が並んでいるのが見えた。祭りの合奏練習らしい。三軒先には小さな屋台が建てられていて、三角耳の姉弟が炭飴を拵えている。姉の手つきからは迷いが消えて見えた。
通りの両脇に屋台の準備が進んでいる。ユッタの声が建物を二つ越えて届いた。
「チーム分けはくじ引きよ!」
私は窓枠に肘をつき、お茶を淹れた。カミラさんの娘が届けてくれていた焼き菓子をひとつ添える。四日前より白と緑の境目が滑らかだ。焼き菓子の半分をハンスの席に持っていくことにした。
お茶の湯気。甘い匂いと鉄の匂い。窓の下では、くじ引きの結果が読み上げられている。
「ありがとうございます」
ハンスは顔を上げなかった。紙の上の六角形が、早くも十個に増えていた。
◇
ルッツが大きな木槌を振りかぶる姿。向かい合うのはセラ。銀色の小槌を構えている。あの、受付の向こうにも届かなかった声と、今は違う。
ルッツが叩く。ガァン。金床が跳ねて、向かいのセラの小槌が手から弾ける。
「あっ。すっ、すみません!」
「あっちです、飛んでいきました」
ルッツが慌てて拾いに走る。どたどたと戻ってきて、おそるおそる加減しながら叩きはじめた。しかし、今度は弱すぎて金床が鳴らない。
「……それだと、音がしないですよ?」
「うーん。じゃあ、どのくらいっすかね……」
「そうですね。じゃあ、わたしと同じぐらいの力で打ってみます?」
「えー。それ、ちゃんと聴こるんすか?」
セラが叩いてみせる。チィン。高くて、細くて、芯のある音。セラの声に似て余韻が長くて鋭い。
ルッツの口は開いたままだった。
「……いいっすね、それ」
「じゃあ、この音が消えないくらいの強さで叩いてみますか」
ルッツは譜面が読めない。けれど、セラの音を通して体で覚えているようだ。机の上で文字に向かう時とと同じ――真剣で、少し前のめりな姿勢。
カキン、キンッ。
セラが小さくうなずいた。二人の音はまだ噛み合わない。でもルッツの槌が、ほんの少しだけセラの余韻を待ってから降りるようになった。
◇
隣の金床。オスカルさんが木箱を裏返して座っている。図書館では椅子を窓際に運んで、雨を見ながら写真集を捲っていたあの人。
隣に座っているのはミル。十三歳の小さな細工師見習い。姉のための本を探すときも、髪飾りの材料を探しに何度も訪ねてきたときも、ページをめくる指先が繊細な職人に見えたあの子だ。
二人とも黙りこくっている。
コォン、とオスカルが叩く。間を置いて、キン、とミルが叩く。
沈黙。
コォン。少し間が縮まって、キン。
沈黙。
窓から見ている限り、二人のあいだに一言もやりとりがない。ないけれど、叩く間隔がだんだんと揃っていくのがわかる。
夜番頭が通りがかりに頭を傾げて覗き込んだ。
「お前ら、ちゃんと練習してんのか?」
「……してる」
「してます」
夜番頭が首を逆向きに傾げて去っていく。首を何度も傾げながらも、口元は緩んでいた。
コォン。キン。コォン。キン。次第に間隔が詰まっていく。
やがて、同時に鳴る瞬間。二つの音が重なって一つの音に聴こえた。二人は顔は見合わせない。けれど、次の間隔がまた少しだけ縮まったように思えた。
◇
三台目の金床の前に、エミールとリーネ。二人は初対面らしかった。
ユッタが外から檄を飛ばしている。
「もっとしゃんと叩きなさい! ほら。あんた体大きいんだから!」
エミールの肩がどんどん縮こまっていく。スケッチを描いているときだけはその体の大きさを忘れる子だが、金床の前ではどうやら忘れられないらしい。
「は、はい……」
エミールが叩く。小さくて聞こえない。ユッタさんが叩いてみせる。これは大きすぎる。金床の脚がガシャンと浮いた。
隣でリーネが指先で膝を叩きながら、首をひねっている。
「うーん。三拍目がちょっと早いよ」
「え?」エミールが振り向く。
「ユッタさんの三拍目だよ。半拍早かった。だからズレて聞こえるんだ」
ユッタに聞こえていないのは幸いだ。
リーネが懐から紙と鉛筆を取り出し、拍子を書き出していく。横線に数字と点。水たまりの地図を描いたときと同じ手つきで、今度はリズムの地図を描いている。
エミールがそっと紙を覗き込む。文字よりもその図解のほうに興味を示してる顔だ。
次に叩いた一打は、さっきまでとは少し違った。決して大きくはなかったが、でもリーネの細やかな拍子にぴたりと合って聞こえた。
「あんた、今のいいじゃない!」
◇
午後過ぎ。短い夕立が前触れなくやって来た。
練習が一斉に止まり、全員が慌てて屋根の下に散った。金床だけが雨の中に通りに残されていた。
樋から垂れた雨粒が金床を叩き始める。やがて大きな金床からは低い音、小さな金床は高い音が鳴り始めた。タン、タタン、タン。雨音に混じるリズム。
窓を閉めに回ると、ハンスが閲覧席で突っ伏して眠っているのを見つけた。鉛筆を握り締めたまま。六角形の図案から線がはみ出して、机の上にぐいっと伸びている。
「……親方。もう一個……」
寝言。何の夢だろう。眠りのなかでも描き続けているのかもしれない。
◇
雨の上がった夕刻。
ハンスが起きたのは閉館間際だった。
「すみません」と耳を赤くして、顔に紙の跡を残したまま帰っていった。
本日の来館者数、一名。
貸出無し。閲覧一名。日誌にはそう書いた。
扉を閉めようとして、枠に紙切れが挟まっているのを見つけた。
『よい祭りを』
差出人はない。見覚えのある筆跡。
通りが橙色に染まっている。昼の菓子の甘さが、まだ口の中に残っていた。




