6月16日『自分で決めた道』
朝方の雨がやんで、石畳がまだ濡れている。
午前の遅い時間に、若い女性が来館した。
耳が左右にせわしなく動いている。淡い灰色の短い体毛。軍装に近い服装の、ボタンをひとつ残さず留めている。右腰にホルスター、左腰に革鞘。この種族が剣を帯びているのは珍しかった。
「申し訳ありません。閲覧中は、刃物をお預けいただけますか」
「あ、すみません」
バックルを外す手が、短剣の柄に触れた。刃が一瞬だけ光を弾いた。
名前はフェイ。腐海討伐隊の副隊長で、来週から第三部隊を率いるのだという。
「隊員を識別する方法を探してて」
部隊ではなく個人の。坑道の暗闇の中で負傷者が出たとき、誰が倒れたのかがわからない。マスクで顔は隠れるし、声を出せない状況もある。
「番号で報告しろって、薬師のマティアスさんには言われてるんですけど……」
肩に泥の跡。朝まで野営地にいたのだろう。説明の途中で、ポケットから干し肉の端が覗いた。目が合って、へたりと耳が垂れた。
「……すみません」
◇
お茶と焼き菓子を出した。両手で碗を包んで、焼き菓子をひとくち頬張ったところで――入口の扉が開いた。
「やっぱりここにいたか」
ザラだ。フェイの背が跳ねる。
「隊長――」
「もう隊長じゃないって言ってるだろ。それに、持ち場を離れる時は待機所に連絡をしときな」
「ふぇも、ふぇは来ひゅうまでに――」
「ほら。飲み込んでから喋りなよ」
慌てて飲み込む。ザラは椅子に座って腕を組んだ。
「それで? どうしたんだい」
尾が一度だけ横に振れた。叱っているようで、もう許している。いつもの態度だった。
◇
三人で閲覧室に入った。
「隊員ごとに名前を書いた札を首から下げればどうかと――」
「暗闇の中じゃ文字は読めないね」
「蓄光塗料とか?」
「瘴気の中じゃかき消える。前に試したんだ」
フェイがほんの少し目を見開いた。
「試したんです?」
「ああ。あたしも、お前と同じこと考えたんだよ。昔ね」
二つ目。合図の音を各自に割り当てる案。フェイが言いかけて、自分で止まった。
「……晶獣は音に反応しますよね。坑道は反響もするし、聞き分けるのは厳しいか」
「自分で気づけたじゃない」
三つ目。支給装備の一つ、肩当ての形を隊員ごとに変えてみる案。
「十五人ぶんだろ? 今から作り分けるのは大変だし、装備の規格も崩れちまう」
「うーん」
沈黙が降りた。メモに三つの案が並び、すべてに横線が引かれる。フェイの耳が伏せた。
「まあでも、触ってわかるって方向は悪くないかもね。装備そのものじゃなく、何か付け加えるってなら……」
フェイの左手がテーブルの金属の縁をゆっくり撫でていた。
「……この金具。よく叩いてますね。粘りがあって、でも硬くもあって」
「おわかりになるのですか」
「指の奥に、温度とは違うものが伝わるんです。金属ごとに微妙に違う。この街に来てから、この感覚が特に鋭くなった気がするんです」
指先がわずかに銀色を帯びて光って見えた。
お茶を淹れ直した。
◇
午後。雲が切れて、日が差し始めた頃に三人目が来館した。
大柄な少年。肩幅だけで扉の半分を占めている。前掛けに炭の汚れ。額の生え際に角質の硬い光沢がある。先日、鍛冶祭の看板の文字を調べに来た、鍛冶見習いのハンスだった。
「すんません、工房の紋章が載ってる本みたいなの、ありますか? あの後、看板の注文が増えちゃって」
カウンター脇を通りかかる。預けてある短剣の鞘を見て足が止まった。
「この鞘の型押し。……きれいっすねえ。どこの工房の紋すか?」
フェイが振り向いた。
「あ。いや、この街に来て、革職人さんに作ってもらったものなんですよ。元の鞘が任務中に駄目になっちゃって。この紋章がどこの工房かとかは、実は知らないんです」
「調べてみるっすよ。ちょうど紋章の図鑑探しに来たんで」
ハンスが、二階の郷土資料から『フリア鍛冶組合工房章録』を持ってきた。革表紙の重い目録。開くと数百の紋章が並んでいる。
フェイの指がページに並ぶ紋章を追っていく。
「――打数が多くて、目が細かい。これは……。あっ。これ、これですよ。この南工房のものだと思います」
「触っただけでわかるんすか」
「はい。金属が教えてくれます」
指がページの上を順になぞる。
「こっちは叩く回数が少なくて、厚みで強度を出してる感じ――」
ページを繰りながら、次々と触れていく。
「丸と角、深い溝と浅い線、放射状と格子状――ひとつとして同じものがないんですね」
手がぴたりと止まり、耳がまっすぐ立った。
「同じものがない……。そうか」
自分の言葉を、もう一度。
「小さな金属の板に隊員ごとに違う紋様を刻んで、二枚一組で首から下げる。一枚は本人の印。もう一枚は倒れたときにちぎって薬師に渡す。名前と能力も刻んでおけば、それだけで全部伝わる」
「型押しなら、俺の工房でも打てるっすよ。三十枚くらいなら親方に頼めばすぐ済むっす」
ザラが目を開けた。
「なるほど。名札の代わりに、指で読める紋ってことか」
「はい。隊員には文字が読めない者も多くいます。それに暗闇でも紋様の凹凸が違えば、わたしのような能力が無くても指先だけで区別できますよ」
少しの間。
「いいんじゃない」
フェイの耳はもう天井を向いていた。
◇
工房章録を借りたいとフェイが言った。ハンスも必要だったが、一冊しかない。
「先にどうぞ。十五人ぶんを選んだら返すっすよ?」
「わたしが選ぶんですか?」
「隊長さんが選ぶもんっすよ。部下の紋章なんでしょ」
フェイとハンスが連れ立って出ていき、ザラだけが閲覧席に残っていた。
「……あいつ、あの短剣を笑われてた頃があったんだよね。同族の連中は銃だけでいいって考えだから」
椅子の背にもたれたまま、背筋を伸ばして天井を見上げている。
「あたしもそうだった。けど、でも実戦じゃそうもいかない事だって多い」
尾が揺れた。
「あたしが『合理的だ』って褒めたら、次の日に副隊長を志願してきた。はは。単純な奴だよ」
手すりに腕を乗せ、窓の外を歩いていくフェイの背中を見やった。
「単純な奴ほど信用できるもんさね」
◇
「それで。……坑道の方、進捗はいかがです」
「あたしらが『赤壁』って呼んでる地点まで届いたよ。第三層の終点さ。地図師がなかなか役に立っている」
私は黙ってテーブルを指し示した。フェイのメモが残されている。三つの案に横線が引かれているが、走り書きの最後の行だけ消されていない。
――自分で決めた。これでいこう。
ザラはメモ紙をちらりとだけ見て、手をひらひらとさせながら出ていった。




