6月15日『気休め』
今日は風がある。
蒸し暑さが続いているけれど、今日は少しだけ空気が動いていた。鍛冶区画の方角から、炉の低い唸りが届く。街が動き出す音。
午前のうちに、見慣れない男性が来館した。
五十代前半だろう。背筋の良い人だった。受付に立ったとき、まずその姿勢に目がいった。疲れているのに、背中だけが真っ直ぐだった。
しかし、目の下の深い隈と黄色い指先。薬品の染みだとすぐにわかった。爪の際まで沁みつて、洗っても落ちない類いの色。
「薬学の資料を探していおりまして」
穏やかな声。けれど、どこか遠くを見る目をしている。
二階の郷土資料室に案内する。階段を上りながら、ふと、この人の姿勢に見覚えがあるような気がした。いつだったのか。気のせいだろうか。
「こちらが薬学書の区画です。何かお探しの分野はありますか」
「できるだけ、古い記録を。八十年前――『大侵襲』の折に、探索者へ投与したという薬の調合記録があると聞きまして」
◇
「――濃度が、違うのか」
閲覧席につき、革装の冊子を繰る手つきがとても静かだった。紙を傷めない指の運び方。ただ、本ではなく、薬草に慣れた手。紙を扱うように葉を扱ってきた人の手。
「八十年前の瘴気と今のものでは、どうやら濃さが違う。当時の調合比率では、今の曝露量には――おそらくだが、僅かに足りないようです」
その人はマティアスと名乗った。薬草師。街に診療所を構えている。
「――調合した薬を運んでいたのですが、消費が追いつかなくなりましてね。分岐の分だけ、活動時間が伸び、曝露量も増える。正規の薬師だけでは複数の経路を回りきれない。それで、私のような街の薬草師にも声がかかった次第で」
「坑道に入られるのですか」
「いいえ。私は入口から少し離れた仮設の診療所にいます。護衛もおりますが、幸い魔物の巣からは遠いようで――」
遠く坑道からはつるはしの音がよく聞こえるという。時折、走る足音と、それから何も聞こえなくなる時間。その沈黙が一番長く感じる、と。
「本来は往診と調合が仕事なんですよ。子供の熱を下げて、お年寄りの腰に湿布を出して――」
資料を照合しながら、マティアスさんが鞄から小さな紙包みを取り出した。中身は乾燥した花弁だった。色の抜けた微かなピンク色。
「これ。薬に添えて渡してるんですよ。薬効は特にありません。何の成分もない、ただの花弁ですが――」
「なぜ、そのようなことを」
マティアスさんの手が、紙包みの端を丁寧に折り直した。きっと何百回も繰り返している、無意識の動きだった。
「父が――同じ薬草師でしたが、よく『気休めだよ』と添えていたんです。まあ、ただのお守りなんですが、坑道に入る討伐隊の皆さんにこれを渡すと、少しだけ顔が和らいでくれるのが分かる」
それだけで十分、と言いたげな表情を見せた。
「地図師の方にも助けられています。坑道ごとの滞在時間を記録してくれているので、曝露量を逆算できる。あの方がいなければ、投薬量は勘に頼るしかなかったですね」
静かに続けた。
「……地図がなければ帰れない。薬がなければ持たない。どちらが欠けても駄目なんですね」
◇
昼過ぎ。巡回中のザラが立ち寄った。
扉の近くに立ったまま、声をかけてくる。
「北東坑道の護衛、来週増員だってさ。あたしも忙しくなりそうだからさ」
「ええ。通達は届いています」
ザラの視線がマティアスさんに止まった。閲覧席で資料を広げているその手を、しばらく見ている。
「――あんた、確か診療所で」
「ええ。何度かお見かけしました」
「あたしも護衛の交代で前を通る。あんたのその手、覚えてるよ」
マティアスさんが少し驚いた顔をした。
「……『そいつ』もね」
ザラが閲覧席の傍まで歩み寄った。机の上の資料と、隅に置かれた小さな紙包みを見下ろす。
「ただの気休めです。薬効はありませんよ」
「はは。受け取った連中は、それを魔除け代わりにポケットに仕舞ってるよ」
ザラの声には、不思議と棘がなかった。
「馬鹿にできないんだ。特に、ああいう場所ではね」
短い沈黙のあと、ザラが私の方を見た。
「この街で守らなきゃならないものが、また増えちまったみたいだ」
ザラが身体の向きを変える。
「薬師さん。現場はあたしらに任せなよ。あんたの仕事は帰ってきた連中を受け止めることだ。あんたが倒れたら、誰が薬を渡すんだい?」
「……ありがとうございます。そうですね、それが――それが私の仕事ですね」
◇
『私の仕事』。
丁寧な物腰。背筋の良さ。薬草師。
そうだ。春に、一人のご婦人が来たことを思い出した。亡くなったご主人の遺品を抱えて。「息子も同じ仕事をしております」と、おっしゃっていたあの方のこと。
確信はないし、尋ねるつもりもない。同じ言い回しが、同じ職業の人の口から出た。それだけのことだ。
それだけのことが、胸のどこかにずっと触れ続けていた。




