6月14日『独白』
最初の足音は決まっている。
銀色の髪の人。必ず右足から入り、左足が半歩遅れてついてくる。
こつ、こつ、こつ。規則正しく、途切れのない音だ。
昔はもっと軽い音だったのに、今はひと粒ずつに何かを含んだ響きがする。けれど、その重さを下ろすつもりはないらしい。踏みしめ、窓を開け、書架のあいだを歩いていく。
六月の朝。蒸した空気が窓から流れ込み、私は表面に薄く結露する。
こつ、こつ、こつ。この人も、私と似た仕事をしているのだろう——と、時々思う。誰にも気付かれない場所で、この建物を支えているのだ。きっと。
◇
昼になると、足音がいくつも増える。
扉が開くたび、新しい音が混ざる。すべて聴こえ、覚えている。二百年分の足音が、私の記憶で知識のすべてだ。
◇
湿った足音がある。水を含んだ、くぐもった接地音。
とん、とん、とん。柔らかく、水底を歩くように。
いつでも、迷いなく同じ場所へ。帰ると、私の上に薄い水の跡が残る。それもすぐに、音もなく消えてしまう。この人は、ただここにいて、何も言わない。足音だけが言葉だ。
とん、とん、とん。声のない者どうし、足音だけで通じ合っている。そう信じたい。
◇
三拍子の足音がある。
こつ、こつ、かつん。二本の足と、一本の木。隣にはいつも、ぱたぱたと軽い足音が寄り添っている。
この人は最近、入口で少し迷うようになった。木の先が揺れて探るように叩く。頭は道を忘れかけて、けど、足は忘れていない。迷ったあと、いつも同じ席に辿り着いている。決まった時刻。
こつ、こつ、かつん。身体が約束を守っている。手放したものをまだ抱えている。
◇
いつも一緒の三つの足音がある。
どた、どた、どた。先頭は重くて真っ直ぐ。二番目は軽くて正確。三番目は一番重いのに、なぜか弾むように進む。どすん、と着地するたびに、私の奥まで響いて揺れる。
昔はもっと小さかった。忍び足で、こそこそと、見つからないように歩いていた。
どた、どた、どた。今は違う。堂々と、騒がしく、泥ごと踏み込んで。音が大きくなることを、成長と呼ぶのかもしれない
◇
重い足音が四つ、連れ立って入ってくる。
がん、がん、がん、がん。靴底に鉄粉と泥が詰まっていて、踏むたびに私の表面を少し削る。
先頭が一番重い。仲間を引っ張る重さだ。ばらばらで不揃いな四拍子。けれど本棚の前に来ると、四つの足音が揃って止まる。そして、紙をめくる音だけが残る。
がん、がん、がん、がん。通り過ぎるだけだった足音は、今は途中で立ち止まる重い足音になった。知ることの重さだ。
◇
それは、とても軽い足音だ。
さ、さ、さ。細い足、紙の上を滑るような接地音。
私は数えている。
春の初めには、さささ、と小刻みに、限られた時間を一秒でも惜しむように駆けていた。しかし最近、少しだけ間が空くようになった。
さ——さ——さ——と。一音ずつ、あいだに沈黙を挟むように。重いのではなく、より丁寧に。限られたものを、ひとつずつ味わうように踏みしめている音。
◇
それは、とても冷たい足音だ。
ひた、ひた、ひた。海の底を歩いてきたような足音が、乾いた石の上で鳴らす静かな不協和音。
私が、決して知ることのない深さと暗さを通ってきた足音。来ると長いあいだ動かない。潮が凪いだように。この人の重さには、私が量れない何かが含まれている。
ひた、ひた、ひた。来た時と同じように、やがて帰る。あとに微かな塩の匂いと、聴き取れない残響を残して。
◇
さ——さ——と、速度を落としていく音。残りを一歩一歩を数えるように。
ひた、ひた、と、時間を止めている音。永遠にここに立っているかのように。
終わりに近づく足音と、終わりを知らない足音。
◇
他の足音が止むころ、その足音だけが聞こえてくる。
すっ、すっ、すっと正確な歩幅。音を殺すことに慣れた足の動き。この音を、最近よく聴くようになった。銀色の髪の人と、低い声で二言三言。内容はわからない。足だけが語る。
こつ、こつ、こつ。これは、朝を支える足音。
すっ、すっ、すっ。これは、夜を守る足音。
並んで歩くと、歩調がきれいに揃う。長い時間をかけて合わせてきた呼吸なのだろう。中をじっくりと巡り、やがて守る足のほうが、扉の向こうへ消えていく。
◇
足音が絶える。私は眠らない。誰も私に気付かない。
明日もきっと、右足から始まるだろう。こつ、と。銀色の髪の人の、いつもの最初の一歩。
そして一日が始まる。それだけで、十分だ。




