6月13日『祭りの支度』
久しぶりの晴天。
窓を開けた途端、鍛冶場の街区から威勢のいい掛け声が飛んできた。金槌の音ではない、人の声だ。木材を運び、幕を張っている。
夏至まであと八日。鍛冶祭の準備が、街のあちこちで動き出していた。
◇
開館と同時に、扉が蹴り開けられた。
「鍛冶祭の記録簿! 全部見せてくれる?」
大柄な女性だった。腕が太く、声量はルッツの倍はある。後ろに似たような体つきの若い男性が一人、おびえた顔で付いてきた。
「おはようございます」
「あ、おはよう! すまないけど、お願いできる?」
鍛冶場の人は、いつも挨拶より用件が先だ。
「鍛冶祭の過去記録でしたら、三階の資料室にございますよ」
「ごめんね! 今年、あたし、実行委員長なの。初めてなのよ、もう!」
ユッタ、と短く名乗った。
「前任のブルーノじいは二十年やったのよ。引退する時、あたしに一言だけ──『鐘は三時に鳴らせ。それだけ覚えとけ』って」
「三時に、ですか」
「他は何にも教えてくれなかったの。だから全部自分で調べるしかないのよ!」
──と、連れの若い男が紙包みをおずおずと差し出してきた。
「あの、これ、差し入れで……す」
開けると、火ばさみだった。手作りで柄が少し曲がっている。
「ハンス! 普通、差し入れってのは食べ物でしょ!」
◇
三階に案内する。記録簿を棚の奥から引き出すと、二十年分、二十冊。ユッタの目が丸くなった。
「嘘。こんなに?」
閲覧席に並べた途端、隣で調べ物をしていた老紳士が顔を上げた。
「おお、これは鍛冶祭の記録簿かい? 懐かしいのう。儂も昔、出し物の審査員をやったわい」
気がつけば、閲覧室の利用者たちが一緒に記録簿を覗き込んでいた。
「ちょっと、これ見て見て。──『金床叩き合奏』。金槌で演奏するの?」
「『八つの工房が金槌の打音だけで旋律を奏でた催し』だそうですね」
「これ、復活させたい! ね、ハンス、あんたのとこの工房、リズム感ある人いる?」
「番頭がすごいっす。鉄打つとき歌ってるんで」
「よし採用!」
即断。さらにページを繰る。
「『高炉の大点火』?」
「『夜に全工房が一斉に高炉を焚き、炎の柱で街を囲む儀式』。十五年前から中断されてるようですね」
「これ、やろうと思えばできるのよ。ハンス、ギルド長に聞いてきて」
「え……今っすか?」
「いきなさいよ!」
ハンスが飛び出していった。
◇
入れ替わりに、静かな女性が来館した。穏やかな顔立ち。手に小さな紙包み。
「すみません。植物の図鑑を見せていただけますか。白葉草が載っているものを」
白葉草。夏至のころ、葉の片側だけが白く染まり、もう片側は深い緑のまま残る不思議な草。夏の始まりを告げる野草として知られている。
カミラという菓子職人らしい。この白葉草を象った焼き菓子を、鍛冶祭の屋台で売るのだという。
「型を鋳造するんですけど、白葉草の正確な図案が欲しくて」
「植物図鑑がございます。彩色図版のものがありますので、参考になるかと」
案内すると、カミラは図鑑を開いた途端、息を呑んだ。
「へえ……境目が、直線じゃないんですね」
白と緑の境が、ゆるやかに波打っていた。滲むように溶け合っている。
「二色の生地を片側ずつ流し込んで作るんですけど、この滲みは……。再現できるかしら」
カミラが紙包みを開いた。白と緑、二色に分かれた小さな葉の形の焼き菓子。一口いただく。白い側はミルクの香り、緑の側はほんのり薬草の苦味。
「おいしいですね」
◇
ユッタが三階から記録簿を抱えて降りてきた。
「ねえ、聞いたわ。あなた菓子職人だって? ちょっとこれ見てみて──」
『冠づくり体験』の記録。錫の薄板で冠を作る催しらしい。
「ねえ? あなたのその白葉草菓子で冠を作ったら、面白くない?」
「……菓子で冠を? どうでしょうか……?」
「できると思えばできるのよ!」
カミラが小さくたじろいだ。
「はあ、はあ。姐さん! ギルド長が、計画書を出せば検討するって!」
と、そこへハンスが息を切らして戻ってきた。記録簿を覗き込んだ途端、古い写真に目が止まった。
ユッタの指が最古の部をちょうど開いていた。巻頭の写真──旧広場の御柱の図。葉っぱのように様々な鉄飾りが付けられ、その一番上に六角形の大きな意匠がある。
「あ、この鉄飾り。うちの爺さんの工房章っすよ。この模様、今も親父が使ってるやつだ」
「へえ。あんたの親父さんの。そうだ、じゃあ今年はあんたも出しなさいよ」
いくつかページをめくると、同様の写真の隅に注記を見つけた。──『この年。御柱には、鍛冶場の安全を祈る飾りに加え、豊作を祈願し果樹園から寄贈された林檎を吊るした』。
「こんな年もあったのね。知らなかったわ」
「……これ」
しばらく黙っていたカミラが、口を開いた。
「この柱に、菓子の飾りを下げるのはどうでしょう。白葉草を吊るして、子供が背伸びして取る、とか」
ユッタが手を叩いた。
「それよ! よし、じゃあハンス。あんたは看板を書くのよ!」
◇
看板用の筆文字見本集を出した。ハンスが文字をなぞり始める。煤で黒ずんだ指先が画用紙に跡をつける。
「俺、字あんまり得意じゃないんだ……」
と、カミラが図鑑のページを開いて見せた。
「そうだ。この葉の形、看板の飾りに使えないでしょうか?」
「あっ、絵なら文字より、ちょっとだけ描けるんす。知り合いに上手いやつがいて、少し教わったんで……」
ハンスが炭筆を借りて、図鑑を見ながら白葉草を描き始めた。煤の黒が、そのまま葉脈の陰影になる。濃く塗り込んだ側と、紙の白を残した側。その境を、指先でそっとこすった。
五分ほどで、図案が仕上がった。カミラが目を見開いた。
「……この線。私が出したかった滲みは、こういう線ですよ」
ユッタが覗き込んだ。
「ちょっと。この葉っぱ、本物より頑丈そうじゃない。使えるわ!」
「落書きっすよ」
「落書きじゃないわ。図案よ、図案。立派じゃない」
◇
昼過ぎ、空が急に暗くなった。夕立だ。
ユッタとハンスが記録簿の写しと図案を上着で包み、肩を組むようにして雨の中を走っていった。
図案の写しを手にしたカミラが、帰り際にぽつりと言った。
「ハンス君のこの絵を元にして、型を作ってみますね」
カウンターの上。白と緑の焼き菓子が二つ、それと火ばさみが一本。




