6月12日『追う者』
窓を開けると、湿った空気の底に鉄の匂いがあった。
六月の半ばの、雨季のさなかの蒸し暑い晴れ間。それでも陽の光は歓迎だった。二階の窓を順に開けていく。風が入り、書架の間を通り抜けて、紙の匂いを攪拌する。
午前十時。
大きな体格の男性が来館した。短い角。身なりは堅く、旅装の上に灰色の外套を重ねている。差し出された名刺には「古書商」と刷られていた。
名前はレオン。他都市からの来訪者だという。
名刺を受け取りながら、手の動きを見た。指先に迷いがない。帳簿をめくる指ではない、何かを掴み慣れた手だ。
その後ろに――見覚えのある姿があった。
杖をついた老人。灰色の羽毛に覆われた翼を背に畳んでいる。嘴の端が下がり、顔の皺が深い。
確か、ハルドヴィンさん。
四月に、孫娘のリーゼルと一緒に来てくださった方だ。リーゼルはあの日以来、毎週のように通ってきてくれている。先週も閲覧席で古い地図帳を広げていた。
目が合った。老人は小さく頭を下げたが、孫娘の話をする時の穏やかな笑顔は、今日はない。
◇
レオンは閲覧席ではなく、私に面談を申し出た。
カウンター奥の応接室に三人で入る。書類棚と、古い机と、椅子が三つ。普段はほとんど使わない部屋。
椅子に腰を下ろすと、レオンは名刺とは別の書類を取り出した。
「申し遅れました。私は広域治安維持官です。先ほどの名刺は、捜査上の身分でして」
書類には都市間連携捜査局を示す獅子の紋章があった。ザラの事務所にも同じ紋章の通達が届いていると聞いた。
「盗賊団『赤い翼』の追跡を担当しております。この過去二年間で、マレフ、アエリア、そしてフリア近郊にまたがり、現在までに合わせてニ十四件の犯行が確認されています」
淡々とした声で、レオンは報告書の概要を読んだ。商家や金庫への侵入窃盗、クリスタル商の在庫強奪、美術品の持ち出し。被害総額は、小さな商会がひとつ潰れるほどの額だった。
「……首領の名はペディオ。緋色の翼を持つ隻眼の男です。聞き覚えはありますか?」
膝の上で、指が小さく握られた。自分でも気づかないうちに。
表情を変えないことには慣れている。カウンターに立つ人間は、どんな来館者の前でも同じ顔をする。
ただ――心臓の音が、自分にだけ聞こえていた。
◇
ハルドヴィンさんが、杖の頭を掌で叩いた。
「儂は組合の代表で来た。……この半年で三軒、卸売が三軒もやられたわ」
声は太く、短い。長い年月を重ねても角が取れなかった石のような声だった。
「幸い儂の店は無事だ。だが、やられた連中は儂の長年の仲間だ。三十年、四十年と付き合ってきた。酸いも甘いも分け合ってきた」
杖を床に突いた。こつん、と硬い音がした。
「一晩だ。長い時間かけて積み上げたものを、一晩で」
怒鳴るでもない。声を荒げるでもない。ただ、声の底に沈めた重いものが、言葉の節々からにじんでいた。
「商人は先を見る。来年の相場、十年後の価値をな。だが、足元の影には気づかんかった」
間を置いて、続けた。
「価値のわかるヤツが盗る。だから正確だ。一番大事なものだけを攫っていく」
――ペディオは、価値を知る人だった。
千年前の文字、古い文献の一行に目を輝かせていた。あの純粋な好奇心が、今は何を正確に見抜いているのだろう。
その考えが浮かんだ自分に、少し吐き気がした。
◇
レオンが本題を切り出した。
「それで。この図書館が、次の標的である可能性があります」
報告書の一枚を示した。街の名が赤く囲まれている。
「他都市で押収した資料の中に、この図書館の蔵書目録の写しがありました。目録の中の『非公開』の項目に印がつけられていた」
「この図書館の蔵書目録は公開資料です。どなたでも入手できます」
「ええ。しかし、問題はわざわざ印を付けている点です。……王国が公的に秘蔵しているものが、あるはずですよね?」
レオンの視線が、わずかに鋭くなった。
「宮務省にも照会しました。『管轄外』の一言で片づけられましたが……」
ハルドヴィンさんが杖を鳴らした。
「役所が教えんからここに来たのだ。もちろん、話せん事もあるだろうが、司書さんのほうが話がわかるだろうと思ってな」
レオンが小さく苦笑した。上に聞いても降りてこない情報を、現場で拾うしかないという実務者の顔だった。
「心当たりはありませんか? 秘蔵品に限らず、不審な来館者や不審な郵便物についても。何でも良いので――」
不審な郵便物。引き出しの中の、あの封書。深い赤の蝋印。
「王国の秘蔵物については、やはり私の権限ではお答えできません。宮務省の判断に従うほかありません。不審な来館者については――」
――時には、語らないことでしか守れないものがある。
「保安官事務所と連携して対応しておりますので」
レオンは数秒、私の目を見つめた。何かを測る視線。やがて、小さく頷いた。
「……何かお気づきのことがあれば、いつでも」
連絡先の書かれた紙を受け取った。
ハルドヴィンさんが椅子から立ち上がった。杖を突き、腰を伸ばすのに少し時間がかかった。そして私の方を見た。
「孫がいつも世話になっとるな」
「いいえ。リーゼルさんは、いつも熱心に通ってくださいます」
「知っとる。帰るたびに、今日はこんな本があった、司書さんがこれを出してくれた、とうるさくて仕方ないわ」
皺だらけの顔が、ほんの少しだけゆるんだ。けれどすぐに元の硬い表情に戻った。
「あの子が安心して通える場所を、荒らされたくないんだ。……儂はな」
しわだらけの手が、私の手にそっと触れた。握手ではない。ただ、触れた。
その一言が、今日の会話の中で一番、胸に重かった。
◇
夕方、小雨が降り始めた。
窓から、二人が通りを歩いていくのが見えた。レオンが傘を差し出すと、ハルドヴィンさんは片手で押し返した。二人の姿が角を曲がって見えなくなった。
カウンターに戻り、引き出しを開ける。
深い赤の蝋印の封書から、折りたたまれた便箋を抜き出した。質の良い羊皮紙。左手書きの癖のある筆跡だった。
『秘蔵の書庫の守り人へ
封じた言葉は、本来の持ち主に戻されなければならない
閉じた扉の奥、在ってはならない書の返還を求める
虹を見たあの日の事を、君はまだ覚えているのか?』
明日はリーゼルが来る日だ。
地図帳を、あの子の手の届く棚に出しておこう。




