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6月11日『二人の地図師』

挿絵(By みてみん)

 今日は空が低い。


 朝から湿気が壁に貼りつくような曇天が続き、窓は半分だけ開けておいた。風のない曇りは、紙にとって一番厄介な天気だ。


 除湿の白檀を足しながら書架を巡る。革装丁の背表紙に指を這わせて湿りを確かめていく。今日も変わらない朝の仕事。


 午前の遅い時間に、二人連れが来館した。


 先に入ってきたのは大柄な青年で、その腕に小柄な女性が手を添えている。目の不自由な方を若者が支えているのだろう、と思った。


 けれど入口を過ぎた瞬間、女性の歩きが目に見えて変わった。


 青年の腕から手を離し、金属の杖を一度、床に突く。こん、と短い音。それきり、迷いなく歩き出した。書架の角を正確に避け、地理資料の並ぶ棚の前でぴたりと止まる。


 杖が床に触れるたびに、足元が微かに動いている。壁との距離、天井の高さ。振動が杖先から足裏へ返ってくるのを、歩幅で読んでいるのだ。


「北東丘陵の旧坑道図はございませんか?」


 落ち着いた声だった。振り向いた顔を見て、私は少しだけ息を止めた。


 両の眼の虹彩に、薄紫の曇りがある。瘴気の痕だ。おそらく、光の明暗がかろうじてわかる程度だろう。右手には薄い革手袋。その下に、紫の斑が透けていた。


 杖は白杖と測量器具を兼ねたもので、よく見れば目盛りが刻まれている。歩行補助と計測を一本に収めた、地図師ならではの道具。


「ダリアと申します。討伐隊の測量班を束ねております」


 名刺の代わりに差し出されたのは、派遣証明書だった。冒険者ギルドと保安官署の共同発行。


 後ろに控えた青年がユーリと名乗った。助手だという。大きな手に測量帳と計測具を抱えている。二十歳をいくらか過ぎたくらいの白い肌。


           ◇


 ――北東丘陵。


 郷土資料から旧坑道図を引き出す。五十年前の測量記録で、紙は多少黄ばんでいた。


 ダリアは椅子に座ると、手袋をはずして右手を地図の上に置いた。


 紫の斑点が目立つ指がするすると動く。


 紙の表面を撫でるのではない。インクの隆起をたどっている。二百年前の地図師が筆を走らせたとき、紙に残した僅かな凹凸。折り目のくせ、繊維のよれ、インクが重なって厚みを増した箇所。


「……この線。引いた人は、相当急いでいたんだね」


 私には整然とした測量図にしか見えない。


「インクの圧が均一じゃない。この区画の筆圧だけが高い。――坑道が崩れかけていたか、灯りが尽きかけていたか」


 目で見る地図と、手で読む地図は、違うものを語る。按摩師が指先で身体の声を聴くように、ダリアの指は紙の記憶をたどっているのだ。描いた人間の呼吸まで、時を越えてその指で感じ取っている。


 ユーリが横から身を乗り出す。


「師匠、この区画、今の第三坑道と繋がってるはずです。壁の向こうに空洞がある。奥行き、四十……サンクくらい」


「四十サンク。形状は?」


「縦長で、床が南に二度ほど傾いてます。途中に狭窄部がひとつ」


「瘴気の滞留は」


「……あります。濃いです」


 ダリアが頷く。


「描きなさい」


 迷いのない一言だった。


 青年が測量帳を開き、鉛筆を走らせる。ダリアの口述に従って、坑道の断面図が形になっていく。寸法をユーリが読み、配置と注記はダリアが指示する。


 二人の手が旧坑道図の上で重なった。ユーリが現在のデータを示す箇所を指さし、ダリアがその指の位置に自分の指を添える。五十年前の線と今日の線が、二人の手の下でひとつになっていく。


「師匠。ここ、昔は通路だったのに、今は……」


 ユーリが手のひらを図面に這わせた。地図越しに地形を感じ取っている——そんな仕草だった。


「……何も返しません。塞がっています」


「これは、結晶化だね。壁が瘴気で変質した箇所だわ」


 ユーリが鉛筆を構える。


「壁として描きますか」


「いいえ。特徴だけ記して、空白にしておくのよ」


「……通れないなら、壁として記録すべきでは?」


「いいこと?」


 声の温度が、すっと下がった。


「壁と書けば、二百年後にこの地図を読む誰かがこう思う。『この程度なら、壊せば通れる』とね。空白のまま残せば、同じ誰かがきっと立ち止まる。『ここには何かがある。よく調べるまで、近づくな』と」


「……描かないことで、伝えるんですね?」


「事実を写すだけなら、誰にでもできるのよ。でもそれだけでは本当の地図にならない。解釈を残しておくのが地図師の仕事よ」


 ユーリは鉛筆を下ろした。


「……師匠は、目を閉じててもよく見えるんですね」


「体が覚えているだけよ」


 ダリアが小さく首を振って笑った。


「どこで道が崩れたか、誰がどの分岐で帰ってこなかったか。目で見た地図より、足が覚えた地図のほうが正確なこともあるのよ」


 頑なに、けれど柔らかく。


 ユーリは何も言わず、空白をそのままにした。


           ◇


 閉館後。


 旧坑道図の写しを棚に戻す前に、隣の地図筒にも手を伸ばした。


 百年前の北東部測量図。先月、あの見習い測量士と一緒に開けた筒だ。


 三枚の地図を、並べてみた。


 数字では測れなかったものが言葉として残された、百年前の地勢図。描き手の息遣いが閉じ込められた、五十年前の坑道図。そして、今日の記録。赤い線と注釈と空白の地図。


 三つの時代。同じ場所。

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