6月10日『虹の名前』
嵐だった。
空ごと街が押し潰されるような暴風雨。鍛冶通りの看板が一枚もぎれ、北通りの排水溝から水が溢れている。あたしは合羽の下で耳を伏せながら、図書館に向かった。
ここんとこ毎日、このあたりを歩いている。焦げた羽根の匂い。あれを宿場町と北通りで二度嗅いだ。嵐は何かを隠すのに都合がいい。……匂いも、足音も、全部かき消してくれる。
早めの閉館。今日の来館者はもういない。
カウンターの奥から、あいつが出てきた。
「来てくれると思っていました」
◇
嵐が壁を叩いている。二人きりの図書館は広い。
耳を澄ます。風の層の奥、雨の重なりの向こう――あたしの耳は、もう一つの音を探っていた。建物の軋み、排水路の水流。そのどれでもない気配の方を。
今日は、いない。
それだけ確かめて、茶を受け取った。
すると、嵐が――止んだ。唐突だった。さっきまでの轟音が嘘みたいに消え、軒から雫が落ちる音だけが残る。
窓に歩み寄る。裂けた雲の隙間から青空が覗いている。
鍛冶煙突の向こうに、虹だ。
あたしの耳が横に倒れる。
虹を見ると、いつも二つの景色が重なるんだ。もうどこにも行けなくなった場所が、呼んでもいないのに還ってくる。
◇
数年前。あたしがまだ保安官じゃなかった頃。
パーティを組んでいた。初めてのちゃんとしたパーティだった。あたしと、『あいつ』と、ほかに何人か――そして、一番最後に加わった子供。
名のある血筋の坊ちゃん。紫色の美しい翼を持っていて、道楽で冒険者を始めたような子だった。最初は正直ナメていた。なにしろ天然で、遺跡の壁に古い文字を見つけると仕事を忘れてしゃがみ込むんだから。
「姐さん、ちょっとこれ見てください。この字ってたぶん――」
「見ない。仕事しろ」
でも、悪い奴じゃなかった。やたら懐いて、あたしのことを「姐さん」、あいつのことは「先輩」と呼んだ。野営の焚き火で、誰も聞いていないのに嬉しそうに古い文字の話をする。千年前の文字が読めることが、あの子の宝物だったんだ。
嵐のあと、虹が出た日があった。
紫の翼を広げて、ふわりと浮いた。あの子には空が庭みたいなものだ。濡れた空気の中で紫の羽根が光って、虹を背にしたあの子は――認めたくないけれど、綺麗だった。
翼はあの子の全て。血の証で、名前よりも価値がある。他の何を失ってもあれだけは残ると、あの子自身がそう信じていたものだった。
「虹って橋に見えません? あの向こうに、きっと誰かが隠した宝があるんですよ」
「お前が言うと泥棒の台詞に聞こえるな」
「ひどい! 僕はこれでも貴族ですよ!」
むくれた顔。あたしは笑い、あいつも横で笑っていた。声を出さずに、でも目が細くなって、口元が少しだけ緩んでいた。あの頃のあいつは、今より笑い方がずいぶんと柔らかかった。
紫の翼と、虹と、好奇心旺盛な若者。
……全て失われてしまった。
あの場所にはもう帰れない。あそこがどこだったかも、正確には思い出せない。ただ虹を見ると、あの紫の羽根が光に透けた瞬間が、いつでも鮮明に戻ってくるんだ。
◇
窓辺に戻る。虹を見ているあいつの横顔を見た。
「……あんたも?」
カップを持つ指が止まった。
「何をでしょう」
「とぼけないで。野営地の虹。紫の翼」
沈黙。軒の雫が一つ、二つと石畳を打つ音だけ。
「……ええ」
「……あの焦げた匂い」
あたしは窓の外を見たまま言った。
「最初に嗅いだのは、ここ数日じゃない。もっと古い、思い出だ」
◇
八年前。アニアックと呼ばれる広大な腐海。
瘴気に曝された木々が結晶化し、透明な幹と枝が広がる水晶の森。誰かが何百年もかけて、森ごと硝子細工に作り替えたような、美しくて、歪な遺跡。ピンクの霞がマスク越しの視界をぼやかしていた。
あたしたちはその外縁部で晶獣の群れと戦っていた。あの子は森の奥にいて、発掘隊の連中と一緒にいた。いつもの通り、古い文字に夢中になって。あの子の宝物だったもの。それが全ての始まりだったのだけれど。
甲殻に覆われた蟹に似た化け物が三体、結晶の木立の間から這い出してきた。元は何の獣だったのか、上半身がクリスタルの外骨格に覆われている。鋏のような部位の関節の裏にだけ、まだ肉の色が覗いていた。
あたしは銃を抜いた。足元の地面も半分結晶化していて、踏み込むたびに靴底がじゃりっと滑った。
甲殻に当たった弾が火花を散らして弾かれた。二発、三発。石壁を撃ってるみたいに、結晶化した外骨格には通らない。
回り込んで、脇腹の関節、肉がまだ残っている隙間を狙い撃つ。肉の隙間に弾が入り、化け物が痙攣したが倒れない。体液がすでに結晶化しかけていて、弾丸が中で止まっているんだ。同じ隙間にもう二発押し込んで、ようやくその巨体が崩れ落ちた。
銃口を上げて、振り返る。
――あのとき初めて見たんだ。『彼女』の本当の動きを。
残りの二体を、同時に相手していた。銀色の髪が瘴気の中で白く光る。
一体目の鋏が横薙ぎに来る。彼女は半歩だけ後ろに下がり、髪を掠める距離で鋏を躱すと、外骨格の下――甲殻が脚の付け根に被さる角度の死角に、自分の体ごと滑り込ませ、掌で一撃。内側から亀裂が走って、外骨格が音を立てて割れた。
一体目の崩れる体を足場にして跳ぶと、二体目の背中の、外骨格が三枚重なっている継ぎ目に掌を当てた。硝子が割れるような音とともに甲殻が陥没し、中から結晶化した体液が噴き出した。
あたしには、あの動きの拍子が聴こえなかった。壁の向こうで鳴っている音楽みたいに、確かにそこにあるのに、あたしの耳には届かない。彼女は息ひとつ乱れていなかった。
こいつの隣なら、どこでも戦える。そう思えた。
と、そのとき――森の奥から、光が溢れた。
七色の虹に似た光。けど、もっと鋭く、熱を孕んだ、禍々しい光だった。結晶の木々がその光を乱反射し、透明な幹が七色に染まって、森全体が内側から燃えるように輝いていた。
あたし達が発掘隊に追いついたとき、全ては終わったあとだった。
幾何学的な破片が地面にいくつも散らばっている。なにかの残骸。それが何だったのか、何をしたのか、あたしにはわからなかった。
あの子が倒れていた。
翼の色が。紫が焼け焦げるような、緋色に。あの子の価値そのものだった翼が、別の何かに書き換えられていた。上から塗り潰されたのだ。元の色は、もうどこにもなかった。
あの子の顔も、彼女の顔も、あたしは見なかった。見たら、あたしの中の何かも壊れると思ったからだ。
あの日を境に、虹が出ることはなかった。
◇
窓の外で、虹が薄くなり始めている。
「ペディオ」
この図書館の中で声にするのは、たぶん初めてだ。
「……ええ。ペディオです」
「あの子の欲しいものが、この図書館にあるってわけか」
短い沈黙。あいつが口を開いた。
「ザラ」
「ん?」
「あの最初の野営地での、彼の言葉。覚えていますか」
「虹の橋の向こうに隠した宝の話かい?」
「……今の彼が欲しているもの。それは、『力』です。禁忌とされた力。そして、それはこの――」
「図書館の、四階か……」
虹が消えた。空がもう一度暗くなり始める。嵐の第二波が来る。
「戻るよ」
「……気をつけて」
「あんたもね」
出口で振り返った。
窓辺に立つあいつの髪が、虹の最後の残光を受けて一瞬だけ、銀色に光った。
あの水晶の森で見た色と同じだった。暗い瘴気の中で白く光ったあの髪と。




