6月9日『継ぐ人たち』
六月の霧雨は、音がしない。
窓の向こうが白く煙って、街並みが水彩画のようににじんでいる。
「すみません、今日はお約束の日で。三人の方に、ここでお話を伺いたくて」
手帳を抱えたイルマさんだった。『継ぐ人たち』という商工新報の連載企画だという。
カウンター脇の閲覧席をひとつ空ける。霧雨の光がやわらかく差し込む、静かな窓際。
「この図書館は取材に向いていますね」
イルマさんが椅子の位置を整えながら言う。
「声が落ち着く場所です」
◇
「引き継いだのか、と聞かれると困るのですが」
「それは、なぜでしょう?」
午前。あの老人の息子――ナハルさんが、火曜の定刻に姿を見せた。長い耳が霧の雫でわずかに濡れている。外套を脱ぎながら、いつもの席へ真っ直ぐに向かった。
「――火曜日になると、足が自然とここに向く。家を出るとき、今日はやめておこうと思うこともあるのですが、でも気づくと、自然とここにいるのです」
「あの本は、その後いかがです?」
「いえまだ。ただ――時々ですが、前に進みたいと、思えることがあります」
イルマさんのペンが止まる。視線が椅子の肘掛けに向いた。
「……肘掛けの色が、左右で違いますね」
ナハルさんが目を落とす。片側は深い飴色。長い年月が磨き上げた艶。反対側は、まだ薄い。けれど二ヶ月前にはなかった色が、ほんのりとついていた。
「気付きませんでした。ふむ。自分がここに何かを残しているなんて、考えたこともなかったですね」
穏やかに笑って、ナハルさんは次の問いを待った。
「その。お父さまとの暮らしの中で、いま思い出せることはありますか?」
「……ひとつだけ」
ナハルさんが語ったのは、灯りの話だった。
「長く帳簿の仕事をしていましたから、月末は夜遅くまで数字を追います。それで、手元の油灯がいつも満たされていて、芯もきれいに整っていた。それが当たり前だと思っていたんですが――」
「お父さまが?」
「父が亡くなって、最初の月末でしたね。計算の途中で、灯りが消えた。初めて、油が切れて――」
少しの間。
「それで、はたと気づきました。そうか。毎晩、誰かが面倒を見てくれていたんだと」
ナハルさんがおかしそうに目を細めた。
「数字ばかり見ていて、すぐ隣の灯りに気づかなかったのです」
イルマさんが小さく笑った。けれどペンは止めず、そのまま書き留めている。
彼が本を持つ仕草。左手を背表紙の下に添え、右手はページの端に軽く触れる動き。
亡くなったあの老人と同じ所作だった。
◇
「最近の弟子なんです。この子の話も、聞いてもらったほうがいいかと思って」
「……すみません遅れました、親方!」
昼前。織物職人のヨルクさんが来館した。ひとりではない。その背後から、私の腰ほどの小柄な姿が飛び込んでくる。淡い黄緑色の外皮に、背中で畳まれた四枚の薄い翅。大きな複眼がせわしなく動き、四本の腕がそれぞれ鞄を押さえ、帽子を取り、メモを広げ、額の汗を拭いている。
覚えている。百二十年ぶりに返却された図鑑を借りていったあの子。
イルマさんが四本の腕にちらと目をやった。
「便利でしょ? メモ取りながら本も押さえられるんですよ!」
少女は屈託なく笑う。
イルマさんに促されて、ヨルクさんが話し始めた。夜学を再開してひと月あまり。最初は三人だった生徒が、今では十人に増えた。
「ほとんどは、親御さんの代から読み書きのできない家庭の子たちです。ところが面白いことが起きましてね。字を覚えた子が家に帰り、今度は親に教えていく。親御さんの何人かからも夜学への申し出がありましたよ」
鞄からシャトルを取り出し、手のひらで転がす。以前より、握りの木の色がさらに深い。
「やり方は違うかもしれない。けど、道具は変えていない。同じシャトルで、違う布を織っているんです」
イルマさんが少女のほうへ向き直った。
「あなたにとって、夜学はどんな場所ですか?」
少女の触角がぴんと立つ。複眼の色が、わずかに金色へ近づき、少し考えてから、少女は答えた。
「『いろんな色の花が同じ風で揺れる場所』、です!」
私はあの午後を思い出していた。杖の音と軽い足音が、同じ速さで遠ざかっていったあの日を。
◇
「――再現できそうなのは三割くらいですね。記号の体系が古くて」
「お父さんに訊ねられたらいかがです?」
「それが。……怖いんです」
午後。霧雨が薄くなった頃に、フリッツさんが入ってきた。椅子に座ってから、二度、座り直す。三人のなかでいちばん落ち着かない様子。問いかけに、視線を落としたまま答えた。
「訊いたら認めることになる気がして」
「何を、ですか?」
「父の仕事。……ずっと否定してきたのに、今更って感じで」
けれどフリッツさん自身が、その矛盾を少しおかしく感じているような顔をしている。
「最近、妙なことがあって」
「どんな?」
「夜、設計図を広げていると、壁の向こうから音がし始めるんです。同じように紙を広げる音。父の部屋が隣なんですが……」
「話しかけたりは?」
「しませんよ。でも、壁越しのほうが、今は――近い気がするんです」
小さな手が設計図の端に触れている。紙をめくるというより、撫でるような指先だった。
「読めない部分がまだ七割もある。でも、その七割がいつかは――」
イルマさんが静かに言った。
「その『いつか』を、記事に書かせていただいてもいいですか?」
フリッツさんが顔を上げる。
「『いつか』がいつかなんて、わかりませんが……」
「ええ。ですから、『いつか』のために、今のうちにお約束させてください」
フリッツさんが笑った。ぎこちないけれど、ちゃんとした笑顔だった。
◇
夕方。四人が帰ったあと。イルマさんが閲覧席でメモを整理している。
ペンを置いて窓に目をやった。霧で薄くなっている街並みの輪郭が、少しずつ戻りはじめていた。
「記者の仕事は遠くを見ることだけじゃないんですね。すぐ隣にあるのに見えていないもの。気付いているのに触れられないもの――それを探し出すのは、記者にしかできない事なのかもしれない」
「記事のタイトル、お決まりですか」
イルマさんがこちらを見て、それからゆっくりと、手帳に書き足した。
『手が覚えていること』。
本に添えた左手。シャトルを握る手。設計図に触れた指。メモを走らせた四本の指先。
帰り際、イルマさんが振り返った。
「クローディアさんは――手が覚えていることって、ありますか?」
答えなかった。ただ笑って、小さく首を傾げた。
引き出しの鍵に、指が触れている。
この図書館には、見えない継承がいくつもある。この霧の向こうに、いくつも。




