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6月8日『夕空の笛』

挿絵(By みてみん)

 今日は雨が止んでいた。ただ、空気はまだ重い。髪が頬に貼りつくような湿度のなか、一階の窓を半分だけ開ける。これ以上は紙が許さないだろう。


 朝一番に来たのはセラだった。


「おはようございます」


 その声が一階の天井まで届く。はじめて利用証を作りに来たときは、カウンターの向こうにいる私にすら聞き取りづらい声だったのに。


「今日は、ご報告があるんですよ」


 セラがカウンターに両手をついた。小柄な体が少し前のめりになっている。


「ルーカスさんに、新しいデザインのブローチを見せたんです。水玉の形で――」


 一拍、間があった。


「良いな、と言ってくれました」


 声がほんの少し上ずっている。「それだけ」、という言葉を飲み込んだ顔をしている。


「良かったですね」


 セラが笑った。頬が薄く色づいている。


           ◇


 午前の遅い時間に、見慣れない来館者があった。


 大柄な女性だった。長い筒状のケースを背負い、扉をくぐるとき少し身をかがめている。頭の両脇に短い角があり、手入れされたその先が微かに光沢を帯びている。


「すみません。楽器の湿気対策について書かれた本を、探しているのですが……」


 声はゆったりと落ち着いていたが、手はケースの紐をしきりに直していた。


「楽器の管理ですね。ご案内します」


 二階の書架に案内した。楽器の実用書は数冊ある。金属製の管楽器、木管、弦楽器。


 ヴィオと名乗ったその方は、一冊ずつ丁寧に引き出しては目次をめくり、そして静かに閉じた。


「……やはり、載っていないですね。この中のどれとも、違うものなので」


「どのような楽器をお使いですか」


 ヴィオがケースを下ろし、蓋を開けた。


 飴色の管が現れた。フルートのような横笛だが、素材が違う。しなやかで、滑らかな光沢がある見た事のない木だ。節のような継ぎ目が等間隔に走り、指穴の縁は長年の熱で丸みを帯びている。


「『トアラ』、という楽器です。南方の樹の幹から作る笛で。竹に似ているんですが、もっと粘りがあって、軽い素材で――」


 この街の木工技術書が扱う硬い木材とは、まるで性質が異なりそうだった。


「乾いた地方の楽器なんです。なので、どうやらこの街の湿気が堪えるようでして……」


 ヴィオが胴を指でなぞった。


「新しいものに替えるのは難しいのですか」


「あちらでしか作れないので、そう簡単には。それに──替えたくないんです」


 閲覧席にケースを置き、ヴィオは笛を両手で包むように持った。あちこちにある小さな打痕。磨り減った歌口。汗で色の変わった箇所。


「ずっと一緒に旅をしてきた物ですから。どこで何があったかが全部、ここに残っているんです」


 吹くときの口の当て方も、指の間隔も、全部この一本で覚えたのだという。十年来の手と笛。


「では、その樹の性質を扱った資料を探してみましょうか。植物誌や木工誌のほうに、何か参考になるものがあるかもしれません」


           ◇


 二階の自然誌の棚を二人でくまなく見ていたときだった。


「……あ、あの」


 背後からセラの声がした。棚の陰からこちらを覗いている。その目が、閲覧席に置かれた笛に向いていた。


「それって……もしかして『トアラ』、ですか?」


 ヴィオが振り返る。


「知っているんですか?」


「はい。わたしの故郷で。……隣の家のおじいさんが、夕方になるといつも――」


 セラの声が少し柔らかくなった。あまり見せたことのない遠い目をしている。


「子供の頃、よくそのおじいさんの横に座って、手入れする姿を見ていた覚えがあります」


 ヴィオが目を見開いた。角のあいだの額に皺が寄る。それから、ゆっくりと笑った。大きな体が一度に和らぐような笑い方だった。


「まさか、知ってる方に出会えるとは思いませんでした」


           ◇


 一階の外周ベンチに場所を移した。


 ヴィオがトアラを手に取って指穴を見せる。縁がわずかに盛り上がっている。


 セラが身を乗り出す。


「思い出したんですけど、雨の季節になるとよく蜜蝋を塗ってました。管の内側に、ごく薄く延ばすように」


「蜜蝋?」


「はい。この木と相性が良いらしくて。水を弾くけど、音は殺さないんだって。よく言ってました」


 セラが自分の鞄を探り始めた。銀細工の仕上げ用に持ち歩いている小さな蜜蝋の塊と、磨き布と棒。


「やってみていいですか? たぶん、できると思います」


 ヴィオが驚いた顔をした。だが、セラの目を見て、静かに差し出す。


 セラが細い指で磨き棒をゆっくり回しながら、内側の状態を確かめている。それから蜜蝋をほんの少し布に取り、穴のひとつひとつに薄く塗り込んでいった。微細な凹凸を指の腹で感じ取りながら、蝋の厚みを均一に整えていく、ためらいのない手つきだった。


 ヴィオが黙って見ていた。背を丸めて、セラの手元を覗き込んでいる。


「上手ですね。……丁寧で」


「ふふ。おじいさんほどじゃないですよ。でも、手は覚えてるみたいで――」


 六つの穴すべてに蝋を塗り終えて、セラがそっと返した。


「少し……吹いてみてもらえますか」


 ヴィオがトアラを唇に当て、息を吹き込む。


 風が通った。


 管の中をまっすぐに抜けていく、明るく伸びやかな音。乾いた土地の空を思わせる響きだ。短い旋律をひとつ。遠い場所の、懐かしい子守唄のような何か。


 音が止んで、ヴィオがゆっくりと唇を離した。


「この音……」


 ヴィオが目を閉じている。どこか遠くの匂いを嗅いでいるような顔をしていた。


 セラが小さく息を吐いた。


「おじいさんの音と、同じでした。……夕方の音。日暮れの山から吹く風の音」


 ヴィオがゆっくり頷いた。


「……私も。いつも、夕方になると吹くんだ。故郷を思い出してね」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


           ◇


 ヴィオが植物誌と木工技術書を借りていった。自分でも手入れの方法を勉強する、と言って。


 帰り際、セラに向き直った。


「今日はありがとうございます。また困ったら、お願いしていいですか?」


「はい。いつでも」


 二人が連れ立って帰っていく。初対面なのに、もう足並みが揃っている。


 扉が閉まった。


 カウンターに戻っても、耳の奥に、あの笛の音がまだ残っていた。

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