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6月7日『夜の番人』

挿絵(By みてみん)

 私は雨。


 今夜、海から生まれた。


 風に抱かれて陸へ渡り、山を越え、煙の街に辿り着いた。屋根という屋根が煤で黒く、私が触れると灰色の筋になって落ちる。鍛冶の街。炎の街。昼間はさぞ熱いのだろう。


 でも今は夜だ。煙突は冷えている。炉は眠り、路地に人影はない。


 夜の街では、私の声がいちばん大きい。屋根を叩き、石畳を弾き、樋を伝う音。昼間は誰にも届かないこの声が、この時間には街中に響く。


 誰も聞いていないのだろう。でもこの夜だけは、私の番だと思っている。


           ◇


 大きな建物の真ん中にある、四角い空間。屋根のない場所は、私にとって唯一の居場所。


 ケヤキの木が枝を広げている。木は言葉を持たない。けれど、葉の一枚一枚が私を受け止め、幹を伝わせ、根まで届けてくれる。長い旅の終わりを、この木だけが知っている。


 建物の窓は全て暗く沈む。紙の番人は眠っている時間だ。私は紙が苦手だ。触れると壊してしまうから。


 水たまりに空は映らない。厚い雲の夜。でも建物の輪郭は見える。昼より大きく、呼吸をするように、微かに膨らんだり縮んだりしている。


 この時間が好きだ。私を嫌って窓を閉める人もいない。紙もない。ただ石と木と土だけがあって、そのどれもが、私を拒まない。


 ――いつもの静かな夜だった。


           ◇


 石畳が、温かい。


 最初は気にしなかった。けれど、この熱には方向があった。中庭の中を、じわりと広がって移動していく。


 欅の葉から降り落ちた私が、石畳に触れる前に消えた。


 落ちて、消える。また落ちて、また消える。


 夜の石畳は冷たいはずだ。六月の雨粒が蒸発するほどの熱が、なぜここにあるのだろう。


 石畳の隙間から、一筋の白い霧が立ち上った。湯気――ではない。風に触れて散らない。白い筋は意志を持つように這い、集まって固まり、形を成そうとしていた。


           ◇


 怖い。


 この霧は、私を喰っている。


 空に戻るのは自然なことだ。始まりへの回帰。――でも、これは違う。


 落ちるたびに奪われる。私が別のものの一部に変えられる。私の形をして、私の匂いがして。けれど、私ではないなにか。――私から生まれた訪問者。


 膨らむ。熱だけがうごめく。降り注ぐ雨粒を片端から飲み込んで育つ霧の塊が、中庭を覆い、建物の壁を這い始めた。


 窓の隙間を探っている。扉の継ぎ目を舐めている。


           ◇


 蒸気が建物の壁に触れた、その瞬間だった。地の底から、何かが応えたのだ。


 深い力。石組みの隅々から滲み出すような、静かな圧力が。


 窓枠に触れた霧が、瞬く間に水滴に還った。光も音もなく、意思を失い壁を伝って石畳に落ちる。それだけのことが繰り返される。何度でも。


 雨は通す。根に届く水は許す。でも、雨の死骸で作られた来客を、この力は許さない。


 夢の門番のようだ。規律に従い、通すものと拒むものを分ける。冷酷に、しかし穏やかに。


 私よりずっと古い匂いだ。建物の底に、何百年も前から眠り続けるもの。同じ場所で、同じ温度を守り続けているもの。ただ守るためだけに目覚めているものだ。


 中庭の石畳に、戦の痕が薄い水の膜となって広がっていく。


           ◇


 少しだけ風に乗った。建物の表側へ。正面の扉がある方へ。


 扉の横に、誰かが立っている。


 顔の見えない人影。壁にもたれるでもなく、扉に触れるでもなく、ただ立っている。中庭の方角を見つめていた。――いや、もう背を向けて歩き出した。


 降りかかろうとして、届かなかった。


 その人の周りだけ、雨粒が蒸発する。半歩ぶんの見えない熱の膜。私が触れられない輪郭がある。


 人影は結果を確かめるように小さく首を傾けた。唇が動いた気がしたけれど、私に人の言葉はわからない。


 去り際、肩口から匂いがした。焦げた羽根。甘くはない、鋭い匂い。


 雨を遠ざける者の匂い。


           ◇


 誰にも知られない夜だった。誰にも気づかれない攻防が始まり、終わった夜だった。


 明日の朝、紙の番人が中庭に出たら、いつもより多い水たまりを見るのだろうか。大雨のせいだと思うだろうか。夜のあいだに起きた何かを、きっと知らないままに。


 それでいい、と水の底から聞こえた気がした。


 私は雨。朝には止む。海に戻り、また生まれ、また降る。


 私には関係のないことかもしれない。雨は降って流れて消えるだけだ。明日にはもう、今夜のことなど覚えていないのだ。


 でも――もし、覚えていたのなら。そのときは、もう少し強く降ろうと思う。


 また来る。

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