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6月6日『雨の日の贈り物』

挿絵(By みてみん)

 土曜日。入口の傘立てが悲鳴を上げていた。


 詰め込まれた傘同士がぶつかり合っている。今日は曇り空で雨は止んでいるのに、来館者の九割が「念のため」の傘を持参した結果だった。


 足拭きマットが忙しそうだ。泥の靴底を次から次へと受け止めて、もう諦めた顔をしている。


 雨と泥と、『念のため』で溢れる季節。


 そこに、声が飛んできた。三階まで届きそうな声量だ。


「おはようございまーす!」


 調香師見習いのニッカ。三角耳がぴんと立ち、通った鼻筋がひくひく動いている。「来月も来るから!」と宣言して帰った彼女が、宣言通りに現れた。約束を守るのはいいが、声量も守ってほしい。


「あ、ごめん。でも今、すごいことに気づいたんだ!」


 鞄から試香紙の束を取り出し、カウンターに広げる。


「あ、今日お邪魔したのは、師匠に課題を出されたので。その、『雨の街の匂い』を作れっていう――」


 先月の課題は師匠に「まだ足りない」と返されたそうだ。


「雨の日のこの街って、すっごく複雑! 鉄錆と湿った石と、炉の煙が水蒸気に混ざってて――」


 試香紙を何枚も作りながら、館内を歩き回る。棚に鼻を近づけ、柱の継ぎ目に顔を寄せ、窓枠の結露を嗅ぐ。


 そして二階の書架に鼻を突っ込んだまま、振り返らずに声を上げた。


「あ、そうだ。この棚ですよ! 先月と匂いが変わってます! 木の匂いの下に、白い煙みたいな……白檀を増やしました?」


「除湿のために、今月から配合を変えたんです」


「やっぱり! 匂いで書庫を管理してるんですよね!」


 誰かが自分の仕事に気づいてくれるのは、いつだって嬉しい。ただ――。


「じゃあ私もやってみます! この棚は……白檀が三で、古紙が五で――」


 鼻先がすん、と小さく鳴った。


「ニッカさん」


「はい!」


「鼻を本に押しつけないでくださいね」


「あっ。ごめんなさい」


 ニッカには距離感がない。


           ◇


 昼前。入口で、もぞもぞと立っている人影があった。


 エルダだ。両手で小さな包みを大事そうに抱えている。割れ物でも持つような手つきだ。


「あの……良ければですけど、味見を、していただけないかと思って」


 包みの中は煮込み料理。あの祖母のレシピで作ったものらしい。


「私なりの『適量』が正しいのか、もう確かめられないので」


 小さな器に盛られた煮込みを、一口いただく。


 豆と根菜が柔らかい。尖った香辛料の角が取れていて、舌の上でほどけてゆっくり広がる。鍛冶の街の煮込みの味。温かい。


「美味しいですね」


「でも、祖母のとは違うんですよ」


 エルダの顔が曇った。


「おばあさまの味を、私は知りませんから、比べることはできません。けれど、この味は、きっとおばあさまの味の、『続き』なんじゃないかと思います」


「続きですか……」


「この味を作った人が、誰かのことを思いながら作ったことは、わかります。それはこの味にしかないもので――」


 とそこへ、嵐がやって来た。ニッカだ。


「いい匂い!!」


 二階から猛然と降りてきて、器に鼻先を突き出す。近い。


「ごめん、でもこの匂い! 豆と、ローリエと、シナモンが少々……あと、鍋底の焦げの匂いが――」


「焦げてます?」


 エルダが小さく反論した。この人をここまで言わせるのは珍しい。


「あ、違う! 鉄鍋の匂いだよ! 褒めてるの!」


「鉄の匂いが褒め言葉になるかな……?」


「なるよ! 鍛冶の街なんだから、鉄の匂いがする煮込みって最高じゃない?」


 エルダの表情が少し緩んだ。


「あ、北通り知ってる? あそこの鍛冶屋、鉄鍋が有名なんだよね。わたし、匂いのある場所には全部行ってみたんだ。市場、鍛冶場、港、墓地――」


「墓地……」


「雨の日でも花の匂いがすごいんだよ、お墓って!」


 エルダが困った顔で私を見た。助けを求めている。


 面白いから助けないでおこう。


           ◇


 結局、二人はそのまま一階のベンチに並んで座り、煮込みの残りを分け合いながら香辛料の話を始めていた。


 二人の笑い声が響くなか、リンデさんがやって来た。静かな足取りで、まっすぐカウンター脇の植木鉢に向かった。


 三枚だった葉がようやく四枚になっていた。新しい一枚はまだ薄い緑色で、生まれたばかりの色をしている。


「ずいぶん大きくなりましたね」


 リンデさんが葉に触れると、微かに揺れた。風はない。


「ええ。この子が揺れてくれると、話しかけられてるみたいで」


 リンデさんが、書架から持ってきていた『花の図鑑』を手に持って開いた。


「この鉢から咲く花は、リンデさんが触れた花です。図鑑で見る花と、実際に咲く花は違うかもしれませんよ」


 植木鉢の葉が、また小さく揺れる。


「ふふ。……それなら、この図鑑は予習ということにしておきましょうか」


           ◇


 午後。


 ニッカがカウンターに駆け寄ってきた。


「できました! 第一稿です!」


 試香紙を一枚差し出す。「雨の街並み・第一稿」と書いてある。


 匂いを嗅ぐ。鉄と水と、石畳の湿り気。そしてほんの少しの甘い油の匂い。


「おや。この甘い匂いは……」


「あ、さっきの煮込みの匂い! あちゃあ。試香紙に移っちゃったか!」


 でも、意外と悪くない。鉄と水と、誰かの台所。それは確かに、この街の一部だった。


「いい匂いですよ。面白いです」


「……師匠には『偶然です』って正直に言いましょうね」


 エルダが少し意地悪そうに後ろから声をかける。


「えー」


「調香師が嘘をついたら鼻が伸びますよ」


「それ、童話でしょ!」


 二人が一緒になって笑った。


           ◇


 リンデさんが新しい図鑑を持ってカウンターに来た。


 と、帰りがけのニッカの鼻がひくりと動いた。


「あ。この匂い。青くて、まだ眠いような匂い」


「え?」


「この鉢。通りかかるたびに気になってたんです」


 リンデさんがカウンター脇の植木鉢を見て、それからニッカと目が合った。


「……わかるんですか? この子の匂いが」


「これでも、調香師見習いなので。でもこの匂いは作れないかも。……生きてる匂い。……大切にされている匂いです」


 リンデさんが少し笑った。今日二度目の、この人にしては多い笑顔だった。


           ◇


 今日は三人の女性が来た。匂いと、味と、葉っぱ。それぞれの『続き』を持って。


 試香紙を鼻に近づける。鉄と水と、煮込みの甘さ。完成には遠く、でもなぜだか温かい。


 カウンター脇の植木鉢に、水を一さじ。葉が嬉しそうに揺れた。

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