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6月5日『翼の影』

挿絵(By みてみん)

 今日は雨が強い。


 貝殻さんが朝一番に来た。雨の日はいつも早く来館するが、今日はまだ開館して間もない時間。


 金属の装備が湿気できしんでいるが、丸窓の奥の瞳はいつもより穏やかに見える。今日は友人の姿がなく、渦巻き模様の貝殻をカウンターに一つ置いて、風景画集を開いていた。


 続いて、トビアスとエルザ。この二人も普段は夕方だ。仕事が終わる頃に迎えに来て、一緒に帰る。それが金曜日の決まりだった。


「今日は午後からなので」


 エルザが傘を畳みながら言った。雨でトビアスを一人にしておけないのだろう。トビアスが手を振る。松葉杖がきゅっと鳴った。


 いつもとは違う時間に、いつもの顔が並んでいる。


 午前中はひどく静かだった。他に来館者はなく、雨音と、ページをめくる音と、トビアスの鉛筆が紙の上を走る小さな音だけが重なっている。息の詰まるような湿気。空気が動かない。


 ……嵐の前の、妙に澄んだ凪。


 昼前。エルザがトビアスの手を引いて帰り支度を始めた。午後の仕事に間に合うように。


 トビアスが振り返った。


「おねえちゃん。今日、白いね」


「……白い?」


「朝からずっと、きらきらの白」


 エルザが促すと、トビアスは首を傾げたまま、小さく手を振って出ていった。


 きらきらの白。朝から、ずっと。あの子が見ていたのは──あの日から、ずっと纏っているものだ。自分では気づかなかった色。


           ◇


 雷が鳴り始めた頃に、『彼』が来た。


 雨の日だけ訪れるものがある。──雨と一緒にやってくるものが。


 フードの深い雨外套。利用証を差し出す手は革手袋に覆われていた。名前は走り書きで、読みにくい。左手で書いたような筆跡だ。


「技術書の区画を拝見したい」


 声は低い。丁寧な口調だった。──いや、言葉を被っている。手袋の下に別の手があるように、その下に別の口調がある。


 立ち上がって案内しようとした瞬間、匂いが届いた。紙の匂いでも、雨の匂いでもない。


 焦げた羽根。


 あの封書と、同じ匂い。


「三階でございます。ご案内いたします」


 階段を上がる。背後に足音がついてくる。右足がわずかに重い。片側に偏った歩き方。翼を持つ者が、翼を隠しているときに特有の歩き方だ。


 体の奥の、司書ではない部分が起きた感覚がした。


           ◇


 三階の技術書区画。窓の外で雷が鳴っている。


「建築関連はこちらの棚になります。時代ごとに分類しておりますので」


「──ずいぶん整理が行き届いていますね。この規模の図書館にしては」


「恐れ入ります」


「いやいや、お世辞じゃなく。こういう場所はね、管理者の質が建物に出るんだ、これが……」


 語尾が滑った。口調の裾から、別の声が覗いた。だがすぐに引き戻す。


「失礼」


 棚に向かい、図面の綴じを引き出した。迷いのない手つき。建築の趣味にしては、探す先が決まりすぎている。盗むつもりならもっと隠すものだが、この人はむしろ見せている。私に。


 私は書架の反対側で、革装丁の背表紙を確認するふりをした。手を動かしながら、目は動かさない。


 その人が開いたのは、図書館の建築図面だった。


 二百年前の設計図。構造の全体像。そして──四階へ続く、封印された扉の位置。指が図面の上をなぞる。手袋越しの指先が、同じ箇所を三度、往復した。


「この上の階は、公開されていますか」


「四階は現在、非公開です」


「ああ、そう。非公開……」


 繰り返した。噛みしめるように。


「理由はなんです?」


「秘蔵書庫ですので庁舎の許可が要ります。構造上の安全確認も完了しておりませんので、一般には」


「なるほど。――そういうことにしているわけだ」


 今度は戻さなかった。地が出たまま、こちらを見ている。


「もう一つ。──この図書館に、古い設計図が保管されていると聞いたことはありますか?」


 声の温度が変わった。さっきまでの遊びが消えている。


「設計図、ですか」


「ああ。建築のじゃない。もっと──古いものだ。今じゃ誰も作れないものの図面。そうですね、では……『失われし千年の書』。聞き覚えは?」


 視線がまっすぐこちらを向いた。フードの奥で、片方の瞳が雷光を受けて光る。


「当館は技術書を多数所蔵しておりますが、そのような書の記録はございません。設計図の類は基本的に公開資料ですので、三階のこちらの棚にあるものが全てでございます」


「『公開されてないやつ』の話をしてるんだ」


 被り物が落ちた。素の声だった。


 ──そして、すぐに被り直す。


「……失礼。少し踏み込みすぎましたね」


 私は背表紙から指を離し、その人の方を向いた。


「何かお探しなのでしたら、当館の蔵書目録をご覧になりますか。それならばこちらの棚に――」


「いや、結構。見たいものは見た」


 図面を閉じる。閉じた手が、わずかに震えた。何かを堪えている。悪意だけではない。自分の手に迷いがある証拠。


 目が合った。フードの奥。金色の瞳。右目だけが光っている。左側は──暗い闇。


「管理者殿はお一人ですか?」


「私が責任者です」


「一人で守るには、広い建物だな」


「図書館を守るのは、私だけではありません。利用者お一人おひとりが、この場所を大切にしてくださっています」


 沈黙。雷鳴が遠くなった。雨音だけが残る。


「『大切』ね。……昔の知り合いにも、そういうことを言うやつがいたよ」


 呟いた声に、取り繕いはなかった。嘲りでもないもっと柔らかい、もっと古い響きが混じっていた。心臓が一拍、強く打った。


「──きれいだな。昔から、きれいなことを言う」


 返事をしなかった。返事をすれば、声が揺れる。声が揺れたら、この人はそれを見逃さない。


「それで、守れたのかな」


 雨音が、妙に大きく聞こえた。


           ◇


 開いていた図面を閉じ、棚に差す。革手袋の指が背表紙に触れ、離れた。


「また来ますよ。──いい図書館だ」


 階段を降りていく足音。右足の重さ。フードの裾から覗いた、深い赤──血のような色がちらりと見えて、消えた。


 あの忘れ物の傘が無くなっていた。利用証はカウンターに残されていなかった。


           ◇


 午後。貝殻さんが風景画集を戻して帰った。渦巻きの貝殻はカウンターの上にある。朝からずっと、静かにここにいたらしい。


 一人になった図書館。


 引き出しの鍵を回して封書を取り出した。深い赤の蝋印。いびつな紋章──翼を広げた鳥。蝋印に鼻を寄せる。焦げた羽根。今日、三階で嗅いだものと同じだ。


 あの声を、知っている。整えた口調の下にあった、もうひとつの声を。


 名前は呼ばなかった。向こうも呼ばなかった。それが、答えだ。名前を呼べば、あの頃に戻ってしまう。戻ったところで、あの頃はもうない。革手袋に覆われた手と、貸出カードを握るこの手では、もう繋げない。


「……ペディオ」


 想い出と呼ぶには近すぎる。敵と呼ぶには──まだ、遠い。


 窓の外で、雷が光った。六月の雷は長い。

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