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6月4日『声と便箋』

挿絵(By みてみん)

 木曜日の午後。雨の切れ間に光が差していた。


 二階の窓の結露を拭いていると、階段を上る足音が聞こえた。軽い。けれど迷いのない歩幅。


 ミーアだった。


「今週はおばあちゃんを連れ出せなくて」


 普段は土曜日に来る子だ。いつも、祖母のマリアさんと二人で。


「雨が続いているでしょ? 足元が危ないからって――おばあちゃん怒るんですけどね、『行きたい』って」


 ミーアは苦笑している。けれど声に疲れはない。十七歳のこの子はいつも、疲れを声に出さない。


「詩集の返却と、今週の分の選書をお願いします」


 差し出された詩集に触れる。微かに温かい。鞄の中にあったにしては、紙に冷えがない。


「どのような詩集を?」


「いつもは、おばあちゃんに読むから、はっきりした言葉のものを選ぶんです。リズムがあって、色が見えるようなもの。でも今日は……」


 少し迷って、


「今日は、自分が読みたいものを、選んでもいいですか」


「もちろん」


 ミーアは二階の詩集の棚に向かった。


 いつもの朗読用ではない。余白の多い、静かな詩集を手に取る。ぱらぱらとめくる途中で、指が止まった。


 少し長く、そのページを見ている。


 何が書いてあるのかは、ここからは見えない。ただ、指先がそっと一行をなぞったのがわかった。忘れたくない一節に触れるように。


 ミーアは静かに詩集を閉じて、窓際の席に持っていった。


           ◇


 窓際に座ったミーアが、ぽつりと言った。


「三時になると、おばあちゃん、なんとなくそわそわするんです。何を待っているのか、体が覚えているみたいで」


 三時の約束。言葉ではなく、体に刻まれた時間。


「でもたまに、全部忘れている日があって。場所も、名前も、わたしが誰かも」


 声は揺れなかった。慣れてしまっているのだ。


「――この間、読み終わった後に、おばあちゃんが言ったんです。『この声知っているわ』って」


 一筋の光が閲覧席を照らした。


「場所も、名前も、忘れてたのに。声だけは、ちゃんとわかるんだって」


 ミーアの手が詩集の表紙に乗っていた。指先に力は入っていない。でもその手の周りだけ、紙が少し乾いて見える。気のせいかもしれない。


           ◇


 雨が再び降りだした午後遅く。もうひとりの来館者が来た。


 教育ギルドの制服の肩が雨に濡れている。利用証を出すとき、鞄の口が開いて、ぽろりと封筒が滑り落ちた。薄い桃色の便箋。宛名が書いてある。


「あっ、それ違うんです、いや違くはないけど、その、課題の……とかではなくて……」


 弁明が崩壊している。


「大切なお手紙ですね」


「……はい」


 ティナ、と利用証にあった。目の虹彩が淡い光を帯びている。


 便箋を鞄の奥に押し込み、逃げるように二階へ上がった。


           ◇


 二階。文芸書棚で、ティナは本を手に取っては棚に戻す、をくり返していた。


 窓際の席にミーアがいる。その隣の椅子に、ティナがすとん、と座った。


「……だめだ、全然集中できない」


 ティナの独り言。本人は声に出ている自覚がないようだ。


 ミーアが顔を上げて、ちょうど目が合った。


「何か、探してます?」


「え、聞こえてました? ごめんなさい、独り言が多くて」


「大丈夫。図書館って、独り言が出やすい場所だから」


 小さく笑い合った。窓の外で雨が少し強くなった。


           ◇


 二人の会話は、カウンターの私にも届く距離で続いていた。


「あの、急に変なこと聞いていいです? 人に気持ちを伝えるとき、手紙と声と、どっちの方が届くと思います?」


「本当に急ですね」


「急なんです。ここ最近、ずっと急なんです」


 ミーアが小さく笑った。


「どうだろう。わたしには難しいかな。おばあちゃんは、届いてるかどうか、確かめようがないから」


「確かめようがない……?」


「おばあちゃん、少しずつ忘れていくの。でもこの前――」


「『この声知っているわ』って?」


「え?」


「あ、ごめんなさい。顔に……その、出てたから」


 ティナが気まずそうに目を逸らした。言葉を選ぶように唇を噛んで、


「わたし、ちょっと厄介な目を持ってて。人の気持ちが、色で見えるときがあるんです」


「色?」


「おばあちゃんのこと話してるとき、すごく澄んだ色だった。淡くて、温かくて。だから、声は届いてるんだと思います」


 ミーアが黙った。しばらく雨音だけが流れ、それから静かに笑った。


「ありがとう。じゃあ、あなたのその手紙は?」


「……え」


「何日も持ち歩いてるなら、届けたい気持ちはもう育ってるでしょ?」


「育ってても、渡してないもん」


「渡さなきゃ、ずっと便箋のままだよ」


 小さく息を呑む音がした。


「届けて初めて――手紙になるんじゃない?」


 沈黙。雨音だけが二人の間を満たしている。


「……文字を書けない人が声で届けるように、声で届けられない距離は、手紙で届けるしかないと思うな」


 ティナの手が動いた。鞄の紐を、ぎゅ、と握る。


           ◇


 ティナが席を立った。結局、本は借りなかった。


「ありがとうございます。なんか、ちょっと。いえ、すごくすっきりした」


「わたし、何もしてないけど」


「いえ。十分。……すごく、きれいな色でした!」


 慌てて階段を降りていく。その背中に、ミーアが「あ、」と声をかけた。


 外は雨が本降りになっていた。ティナは傘を持っていない。


「使って。わたしはもう少しここにいるし、お母さんが迎えが来るから大丈夫」


 ミーアが傘立てから水色の傘を取った。


「でも——」


「来週の土曜日に返しに来てくれたらいいよ。おばあちゃんと来るから、そのときにね」


 ティナが傘を受け取った。柄に触れた瞬間「あったかい」と、小さく言った。


 六月の雨の中を、水色の傘が遠ざかっていく。鞄の紐をぎゅっと握ったまま。


           ◇


 二階の窓際。隣り合っていた二つの席の、片方にはミーアが読んでいた詩集の癖が残っていたが、もう片方には何もない。ティナが得たものは、どうやら棚の中にはなかったらしい。


 この席で二つの声が交わった。


 届けたくて届けられない手紙と、届いているかわからない声。

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