6月3日『水たまりの地図』
午後。雨が上がった。
窓を開けると、濡れた石畳の匂いと鍛冶の槌音が一緒に飛び込んできた。二日ぶりの音だ。
中庭に出る。水たまりが光っていた。ケヤキの影が水面に揺れ、植木鉢には四枚目の葉が出ている。
入口が急に賑やかになった。
「司書さん! これ、忘れ物です」
ゴルトが傘を一本、高く掲げて駆け込んでくる。がっしりした体で入口の段差を軽々と跳び越え、リーネとマルクスが後ろから続く。
リーネは小柄な体で器用に泥を避けながら、マルクスは泥など気にもせず、日焼けした顔をそのまま突っ込んでくる。三人とも靴が泥だらけだった。
「入口に立てかけられてたんですけど、持ち主の名前読めなくって」
リーネが息を切らしながら説明する。丸みのある耳がほんのり紅潮していた。傘の柄に巻かれた革紐に、確かに名前が彫ってある。古い筆記体、装飾の多い書き方だ。読めはするが、利用者名簿にはない名前だ。
石突の金具に目が留まった。古い鋳造の意匠。翼を広げた鳥のような──小さな、紋章。
「……預かっておきますね。届けてくれてありがとうございます」
三人の目が、一斉にきらりと光る。善意だけで来たのではない。
「……それで、本題は」
ゴルトが待ってましたとばかりに手帳を広げた。丸い鼻の穴がぱっと膨らむ。
「雨上がりの水たまりの位置を記録して、地下水路の地図を作ってるんです」
リーネが続ける。
「地下水路の排水口が近い場所は、水たまりが長く残るらしいんです」
マルクスは黙って手帳を見せた。中庭の見取り図が描いてある。水たまりの位置に青い丸、それぞれに時刻と大きさが添えてあった。丸の大きさまで変えてある手の凝りようだ。
「この辺り、少し見たいんですけど、いいですか?」
◇
三人は中庭に散り、しゃがんで地面を観察し始めた。ケヤキの根元、東隅の石組みの前でマルクスが手招きをした。
「ここ、石の並びが不自然。それに、ほら──聴こえない?」
ゴルトが地面に耳を押し当てた。大きな耳が濡れた石畳にぴたりと張り付く。丸い鼻をひくつかせて、「こっち」と呟いた。リーネが素早くしゃがみ込む。黒い瞳を細め、小さな耳を傾けて石の隙間に顔を寄せている。
私も手を当ててみる。冷たい石の感触。そして──微かだが、確かに。水の流れる音。地面の向こう側を、何かが走っている。
「聴こえた!」
ゴルトが飛び上がった。マルクスが慌ててその場所に印をつける。
「……何をやってんだい?」
声が降ってきた。ザラだ。三階の手すりから、こちらを見下ろしている。
「地下水路の音が聴こえるんです!」
ゴルトの手が石組みに伸びる。私が止める前にザラの声が響いた。
「はい、そこまで。掘ったら図書館の基礎に触るよ」
三人がしょんぼりする。ザラは一人ずつ顔を見て──小さく息をついた。
「……中に戻んな。地図で確かめてやるから」
◇
二階の参考資料室で、私は大判の地勢図を棚から出した。
「大きな地図はこう持つんだ。両手で、下から支えて」
マルクスが真剣な顔で手を添えた。
広げた地勢図には、街の地下水路図が描かれていた。二百年前の都市整備で作られた排水系統。炉の冷却水を循環させる水路網だ。
「すごい……街の下に、もうひとつ街があるみたいね」
リーネが図面に顔を近づけた。黒い瞳が水路の分岐を辿る。ゴルトが隣から覗き込むと、その体の幅で二人の視界が塞がった。リーネが肘で押す。マルクスがゴルトの腕の下に潜り込んで「ここ」と指差した。
「この印、見覚えあるな。……北通りの古井戸だろ」
「ええ。昔、水不足の年にひとりの鍛冶職人が水路を掘り当てて、街を救ったという言い伝えがありますね」
ザラが肩をすくめる。
「そういや、あの辺のばあさんが、あの井戸の水はぬるいって言ってたな。炉の熱が残ってるんだってさ」
マルクスが地勢図に書き込もうとして、手を止めた。私を見る。
「……書いても、いいですか」
「この地勢図には書かないでくださいね」
マルクスが頷いて、自分の手帳に小さな字で「井戸の水はぬるい(ザラさんのおばあさんの話)」と書き添えた。
リーネが水路の線を指でなぞった。
「ここから東に延びて……中庭の下を通って……さっき音が聞こえた場所の近くだ!」
三人の歓声が三階に響いた。ザラが「しーっ」と言いかけて、口を閉じる。
帰り支度を始めた三人に、マルクスが宣言する。
「次は北通りの古井戸だね」
「蓋の下、覗けるかな」
「覗くだけだよ。掘っちゃだめ」
リーネが釘を刺す。黒い瞳が、ちらりとザラの方を見た。
三人の背中を見送りながら、ザラが腕を組んだ。
「元気だね、あの子たち」
「ええ。止まらないでしょうね」
「止まらなくていいよ。走る方向だけ、たまに見てりゃいい」
◇
地勢図を棚に戻そうとして、手が止まった。さっき三人が耳を当てた場所──中庭の東隅、ケヤキの根元。地勢図の上で、その位置を指で押さえる。
水路が、ない。
「……ザラ」
「ん?」
「ここ。さっき水の音がした場所です。よく見ると、地勢図では手前で水路が途切れてます」
ザラが戻ってきて、図面を覗き込んだ。指先と水路線の空白を見比べる。
「記録漏れか? 二百年の間に流れが変わったか」
記録されなかったのか、それとも──。
「……どちらにせよ、地勢図にはない水路を、あの子たちの耳が見つけましたね」
ザラが小さく笑った。
「図書館の地図より子供の耳が正確って、ちょっと悔しくない?」
「いえ。感心しますよ」
と、ザラの笑顔がふっと引いた。三角の耳が一度だけ横に倒れる。
「……地図にない道ってのは、ちょっと厄介かもね」
ザラは肩をすくめて階段を降りていく。
手を振った。笑ってはいたが、耳はまだ横を向いていた。




