6月2日『応急措置』
今日は朝から本降りだ。
窓の結露を拭く布が、昨日の倍の速さで湿っていく。二日目にして、もう布が足りない。
三階の巡回を始める。技術書区画の窓を拭き、革装丁を一冊ずつ確かめ、除湿剤の減りを見る。昨日と同じ順路。六月は毎日が同じ順路で、毎日が違う湿度になる。
郷土資料の棚に差しかかったとき、首筋に冷たいものが落ちた。
見上げる。天井の隅、漆喰の継ぎ目から水が滲んでいる。
一滴。二滴。三滴目が、棚の上の本に落ちた。
声にならない声が出た。本を引き抜く。三冊。表紙が濡れている。うち一冊は革装丁で、すでに水を吸い始めていた。吸水紙を挟み、棚には油紙を敷いて応急の受け皿にする。
ザルツさんの来館は午後だ。
◇
一人で応急処置を続けていると、一階から杖の音が聞こえてきた。
階段をゆっくり上がってきたのは、第二炉の老鍛冶職人だった。白い髭に雨の粒がついている。
「……なんだ、騒がしいな」
「申し訳ありません。雨漏りで。三冊、濡れてしまって」
棚を見た。油紙の受け皿を見た。吸水紙に挟まれた革表紙を見た。
「革が水を吸ったか」
「はい」
「道具屋に油がある。取ってくる」
「あ──」
もう階段を降りていた。杖を置いたまま。
五分もしないうちに戻ってきた。小さな革袋を手に、髪をびしょ濡れにして。
「鍛冶場の革帯と同じ油だ。……塗れ」
受け取って塗り始めると、すぐに手が止められた。
「革目に沿え。繊維を逆撫ですると割れるぞ」
皺だらけの指が布を取り、革表紙を撫でた。私が塗ると表面が光るだけだが、あの指が塗ると革の呼吸が戻るのがわかる。
「毎朝鍛冶場の革帯に同じ油を塗った。一日も欠かしたことはない。……忘れた日は、革が教える。硬くなるからな」
手を動かしながら、目は革だけを見ている。
「道具は嘘をつかん。手入れした分だけ、正直に応えよる」
その手つきで革の上半分を塗り終えたとき、老職人の指が止まった。革と紙の境目。装丁の継ぎ目に油が染みかけている。
「ここはどうする?」
「紙に油が触れると染みになります。蝋紙を挟んでください」
薄い蝋紙を渡す。老職人は境目に沿って丁寧に当てた。
「……鍛冶場じゃ、革と鉄は一体だ。境目なんぞ気にしたこともない」
「本は少々事情が違います。革と紙が別の素材として隣り合っていますので」
「面倒なものだな、本ってのは――」
昨日、別の職人が同じことを言った。鍛冶の街では、本はいつだって面倒なものらしい。
◇
午後。ザルツさんが定刻より一時間早く到着した。
道具袋を肩に担ぎ、二段飛ばしで三階まで上がってくる。
「雨が強いので、早めに来た」
言い訳のように言ったが、目はすでに棚の受け皿を見ていた。
三冊を確認する。吸水紙を剥がし、紙の状態を診る。革表紙に指を当てて、少し長く留まった。
「……応急処置が適切だな」
一拍。
「……油の入れ方も、いい」
老職人が背後から「当たり前だ」。
ザルツさんが振り向いた。皺だらけの指先を見た。
「……この革目の通し方」
「文句あるか」
長い間。ザルツさんの鼻の穴が、わずかに広がった。
「……『悪くない』」
老職人の鼻の穴も、わずかに広がった。
◇
三人で作業を分けた。私は吸水紙を替え、紙を扱う。ザルツさんは綴じを修復する。老職人は革の手当てを続ける。
──と、すぐには噛み合わなかった。
ザルツさんが綴じ糸に取りかかると、老職人が口を出す。
「その革、先に乾かさないと糸が湿気を吸うぞ」
「……革を先に乾かすと縮んで、綴じが合わなくなるんだ」
「鉄なら先に錆を落としてから組むぞ」
「……本は鉄じゃない」
私は吸水紙を替えながら黙っていた。そういえば昨日、同じようなやり取りをしたばかりだ。
沈黙。三人が本を見る。
「革が半乾きのうちに、綴じと同時に進めるのはどうでしょう」
老職人が眉を寄せた。
「中途半端じゃないのか」
ザルツさんが首を傾げた。
「……いや。革が柔らかいうちに綴じれば、糸と革が馴染むんだよ」
老職人、腕を組んで考える。
「ふむ。……鍛冶でいう『沸かし付け』だな。熱いうちに噛み合わせるやり方だ」
「ええ。それに近いですね」
分野が違うだけで、手がやっていることは同じだった。
三人が黙って手を動かし始めると、音が重なった。吸水紙を差し替える乾いた音。革に油を擦り込む湿った音。綴じ糸を引く、かすかな張りの音。
老職人が手を止めた。
「……鍛冶場みたいだな」
「鍛冶場?」
「三人で別々をやっていると、こういう音がしだす。槌と、ふいごと、焼き入れの湯気。それに近い」
窓の外の雨音がその上に被さっている。四つ目の音。
◇
ザルツさんが膨張したページを一枚ずつ剥がしていく途中で、指が止まった。
「……これは」
葉っぱだった。色は褪せていたが、形に覚えがある。
「ケヤキだな」
中庭の木。誰かがこの本を読みながら、窓の外の葉を挟んだのだろう。そして葉っぱと一緒に挟まれた一枚の紙片にはこう書かれていた。
『いつもありがとう』
三人で、しばらくその二つを見つめた。
紙片と葉っぱを丁寧に乾かし、吸水紙に挟んだ。言葉と、言葉にならなかったもの。どちらも、この本が誰かに大事にされていた証だ。
「……捨てるかい?」
「いいえ。これも、この本の一部です」
◇
修復が終わった。三冊とも乾燥待ちだが、致命的な損傷はなかった。
老職人が帰る支度をする。
「……また雨が降ったら来てやる」
「ありがとうございます」
「ふん。礼はいらん」
杖を忘れかけて、取りに戻ってきた。
「忘れたんじゃない。置いていっただけだ」
置いていった理由を聞く前に、もう階段を降りていた。
ザルツさんが道具を片付けている。
「正確な仕事だった」
「鍛冶の手ですね」
「……手だけじゃない。力の入れ方が安定してる。五十年、毎日同じ手入れを続けた手だ」
さっきの『沸かし付け』を思い出しているのだろう。ザルツさんが珍しく微笑んだ。笑うと、縦長の瞳孔が少しだけ丸くなる。
紙片を、郷土資料の記録として保管することにした。あの葉っぱも一緒に。
天井の修理は、明日ナディさんのところに頼もう。
──また借りが増える。六月は、借りの季節でもある。




