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6月1日『六月の雨』

挿絵(By みてみん)

 朝、窓を開けようとして、止めた。昨夜からの雨は上がっていたが、硝子の内側に結露がついている。窓を開けることから始まっていた一日は、今日からは閉めることから始まる。


 除湿剤の確認。蜜蝋の補充。吸水紙の追加。革装丁の点検リスト百二十冊分。結露拭きの布十六枚。


 六月の図書館は、守ることが仕事になる。


 壁の向こうから第三炉の種火が唸っている。雨でも消せない、鍛冶の街の心臓の音だ。


 施錠した引き出しに、一瞬だけ目が行く。深い赤の蝋印を持つ封書。まだ、誰にも話していない。


           ◇


 曇りの午前中、来館者は一人もない。鍛冶の街にとって、錆が出る雨は大敵だ。職人たちの多くは房に籠もって備えている。図書館もまた、静かに待つ。


 三階の革装丁に保護油を塗る。一冊ずつ、指で表面を確かめながら。蜜蝋と獣脂の混じった匂いが、湿った空気の中でいつもより濃い。先代司書の言葉を思い出した。


 『黴は、見つけたときにはもう遅い。見つける前に防ぐの』


 それは本の話だった。本の話で――あったはずだ。


 棚の裏まで点検し終えた頃には、膝に埃がつき、指には蜜蝋が張りつき、髪に蜘蛛の巣がひとつ絡まっていた。そこへ、階段を駆け上がる足音。


「司書さん──うわっ」


 ルッツが目を丸くしている。


「……おはようございます」


「なんか、すごいことになってますね」


「ええ。書庫の手入れをしてまして」


「戦いでも始まったのかと思いました」


 後ろから、もう一つの影。オスカルが踊り場からこちらを見て、一言。


「……掃除か」


           ◇


「雨で炉が止まったんで、来ちゃいました!」


 声量は相変わらず三階まで届く。抑えているつもりなのだろうが、オスカルが後ろから「うるさい」。ルッツには聞こえていない。


 ルッツが鞄から教本を取り出した。紙が波打っている。


「工房の湿気で、こうなっちゃって」


 申し訳なさそうに差し出した。声がいつもより小さかった。


「夜番頭さんが前に、俺のために図書館で本借りてきてくれたんすけど、難しすぎて――」


 ──覚えている。声の大きな、牙の覗くあの人だ。


「それが悔しくて、まず字をちゃんと読もうって。これ、自分で選んだ最初の一冊なんです」


 一瞬だけ目が揺れた。すぐにいつもの笑顔に戻る。


「直せます?」


「ええ。吸水紙を挟んで、上から重しを載せます。三日ほどで」


 ルッツの顔が明るくなる。


「よかった! あ、炉の近くに置いたら早く乾きませんか?」


「どうでしょう。紙が縮んでしまいますね」


 オスカルが横から「風を当てろ」


「……ページが歪んでしまいます」


「鉄なら風で冷ますんだがな」


「じゃあ日に当てれば──」


「インクが褪せてしまいます。それにこの天気ですので……」


 ルッツが両手を広げた。


「えーっ。じゃあ、何もできないじゃないすか!」


「ええ。だから、こうやって吸水紙を挟んで、上から重しを……」


「……紙は、面倒なものだな」


 オスカルがぼそりと言った。


           ◇


 教本の乾燥を待つ間に、オスカルが写真帖を返却した。


「雨の日の街が写っている本はないか」


「雨の街、ですか」


「同じ場所なのに、夜の顔と朝の顔がある。なら、雨の顔もあるだろうと思ってな」


 鍛冶組合の工房記録帖を見繕う。雨天の写真も含まれている。二人で閲覧席に並んで帖を開いた。ルッツが横から覗き込む。


「あ、この炉──もしかして第三炉じゃないすか」


 オスカルが目を細める。


「……違う。第五炉だな」


「えー。いや、煙突の形が──」


「五だ。俺は二十二年見ている」


「じゃあ賭けますか! 写真の下に説明が──」


 二人とも小さな活字を読もうとする。読めない。


 長い沈黙。


「……司書さん。その、これ──」


「第七炉です」


 さらに長い沈黙。


           ◇


 ルッツがぽつりと言った。


「あ……俺、夜番頭さんに手紙書いたんすよ。字が読めるようになりましたって」


 唐突に見えたが、たぶん違う。活字が読めなかったことに、引っかかっていたのだろう。


「そしたら次の日、工房で会ったとき、いきなり頭ぶっ叩かれて」


「……叩かれた?」


「『手紙なんか寄越すな、読めるようになったんなら直接言え、バカ』って」


「……」


「でも、手紙はくしゃくしゃに畳んで前掛けのポケットに入れてましたけど」


 オスカルが鼻を鳴らした。


「……捨ててないなら、そっちが本心だろう」


 それは、彼なりの看破だった。


           ◇


 昼過ぎ、ぽつぽつと降り出した雨が本降りになっていた。


 ルッツが玄関で立ち往生している。


「あー。傘、持ってこなかったんです!」


 ペンを二本折り、教本にインクをこぼし、返却期限を三日間違えた彼が、今日は教本を波打たせた上に、傘を忘れている。


 オスカルが無言で自分の傘を差し出した。


「え──いいんすか!?」


「……取れ」


「オスカルさんは?」


「第三炉までなら屋根伝いに行ける」


「途中、屋根ないとこ三十歩くらいありますよ?」


「三十歩くらいなら死なん」


「そういう話じゃなくて……」


 結局、ルッツが傘を持ち、オスカルは手ぶらのまま出ていった。


「来週、傘返しに来ます! 教本も取りに来ますから!」


           ◇


 オスカルの貸出カードの字が、この前より小さく見えた。枠に収まるようになっている。ルッツは入館する前、靴底の泥を丁寧に落としていた。半年前には気にもしなかったことだろう。二人とも、少しずつ変わっている。


 ふとそう思っていたら、カウンターの上にメモがあるのを見つけた。


 『しょしさんへ きょうもおつかれさまです ルッツ』


 見守っていたのは、どちらだったのだろう。


 メモを引き出しにしまう。封書と同じ引き出しに。深い赤の蝋印と、ひらがなのメモが並んだ。


 ――六月は始まったばかり。

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