5月31日『予感』
この街に来て、ひと月になる。
閉館まであと一時間。窓際の席に陣取ったまま、あたしは報告書をにらんでいた。にらんでいるだけで一行も進まない。代わりに用紙の端の落書きが三匹増えた。
日曜は鍛冶も休みだ。通りの向こうで子供が声を上げて走り回る。大人たちの談笑や市場の声も聞こえる。ページをめくる音と声がぱらぱらと重なる。
この耳は何でも拾っちまう。煩いっちゃ煩いが、まあ嫌じゃない。どこかで職人が歌っていて、音程はめちゃくちゃだが調子だけはやたらいい。つい口元が緩んだ。
「嬢ちゃん、また来とるのか。何か読まんのか?」
窓際の反対側に座る老鍛冶師が図面から顔を上げた。毎週日曜の常連。もう顔を覚えた。
「読んでるよ。『報告書』って名前の本」
「ふん。……相変わらず、字は苦手って面しとるのう」
「……否定できないのが悔しいね」
老人がくくっと笑う。頑固そうな顔が崩れるのは、案外いいもんだ。
カウンターに目を向けた。若い母親に絵本を勧める『あいつ』がいた。声は聞こえないが、表情でわかる。口の端がわずかに上がって、目の奥のずっと遠い場所で灯りがともるような笑い方。あたしは知っている。昔から変わらないあの――。
と、足元を何かが触った。見下ろすと、小さいのがあたしの尻尾を狙っている。あの母親の子供――ひょいと尾を持ち上げてやる。
「触りたきゃ、まず名乗りな」
子供は真っ赤になって逃げた。母親が頭を下げる。いいんだよ、と手を振った。
夕焼けが棚の背表紙を橙に染めている。光の柱の中で埃がゆっくり舞っていた。紙とインクと蝋の匂い。窓から入る工房街の鉄の匂い。外の街と、中の本。混ざり合って、一つになっている。
埃っぽい建物だ。でも意外と居心地がいいのは、この埃の下に何かが眠っているからだろう。あたしはこの図書館のことをまだよく知らない。一階と二階と三階。それだけ見て、それだけで十分だと思っている。
悪くない街だ。討伐は遅れているが……。でもここに来ると、なんとかなる気がする。
◇
「閉館のお時間です。本日はありがとうございました」
あいつの声で、人が動き出す。老鍛冶師が図面を巻いて手を上げた。母子が手を振って出ていく。学生が律儀に頭を下げて、最後に扉が閉まった。さっきまでの音がぜんぶ消えちまった。
慣れた手つきで椅子を戻し、棚の本を揃えた。
「まるで助手だな、あたしって」
「助手にしては少し騒がしいですが」
「そりゃどうも」
返却ポストの回収を手伝う。金属の蓋を開けて、中身を取り出した。本が四冊、地図帳が一つ。それから――本でもゴミでもないものが、底に沈んでいた。
封書だ。
「おや。落とし物かい?」
厚い紙。宛名は「フリア王立図書館、管理者殿」。差出人は空白……。
返却ポストに入れたということは、この場所を知っている人間。一度はここに来ているはずだ。いつだ……? あたしが落書きに夢中になっている間に、すぐ横を通ったのかもしれない。
あいつが受け取る手は、いつも通り静かだった。
封蝋を割る音がした。ぱきり、と。紙を開いて、目を落とした瞬間、顔が変わった。
口の端の笑みが消え、目の奥の灯りが硬くなる。ほんの一瞬だ。だが、あたしはその切り替わりを知っている。何年も前に、何度も見た。あれは司書の目じゃない。状況を計る目だ。距離と時間を勘定している。
冒険者の目……。
◇
何も言わなかった。ただ横目で封書を見た。
蝋印の色。……深い赤。暗くない、燃えるような赤だ。紋章が押されているが形がいびつだった。欠けているのか、最初からこうなのか。
鼻が匂いを拾った。蝋の匂い。だが図書館の蝋とは違う。焦げ方が強くて、その奥、かすかに――羽根を焦がしたような匂いが混ざっているのがわかった。
文面の断片がちらりと見えた。『――秘蔵』、『本来の持ち主――』、それから――『返還』。
返却ポストから出てきた手紙に、『返還』の文字。本を返す箱に『返せ』と書いた紙。笑えない冗談だ。
だが、少し引っかかるのは、盗賊が脅すのなら『よこせ』とでも書く。『返還』なんて堅い言い回しは使わない。かといって全体の調子は粗く見える。丁寧な語彙と雑な口調が一枚の紙の上で喧嘩しているんだ。公文書にしては崩れすぎ、ならず者が書いたにしては気取りすぎ。
どっちにもなりきれていない。こういう文を書くやつは、自分が何者かわかっていない。いや――わかっていたものを、どこかで失くしちまったんだ。だから言葉がちぐはぐになり、振り回される。
その中途半端ないびつさが、妙にあたしの毛を逆立てた。何か――。
――焦げた羽根の匂い。言葉の食い違い。高い場所に立っていた人間が、低い場所の言葉で喋ろうと苦心する、あの独特のぎこちなさ。
記憶の奥で、何かがうっすらと形を取りかけた。色……。赤ではなかった。もっと暗くて、もっと冷たい色。確か翼の――。
そこで像が途切れた。
顔も名前も、今は思い浮かばない。手を伸ばした瞬間に霧に溶ける。でも尻尾の先がざわざわと揺れるこの感覚は嘘じゃない。あたしの体は頭より正直なのさ。
「図書館宛の書簡は、図書館で処理します」
あいつが封書を静かに折り畳み、事務室の引き出しに仕舞った。かちん、と鍵がかかる。その硬い音だけが、静まった図書館に落ちた。
声は落ち着いている。でも、もう笑ってはいない。三つ目の顔。何も言わないと決めた、壁みたいな顔だ。
◇
「あたしは保安官だ。何かあったら、言いな」
鞄を肩にかけて、扉に手をかける。
外に出た。
風が変わっていた。五月の甘い風が、もうない。湿った空気が頬に触れる。六月の匂い。……嵐の匂い。
空に、星はなかった。




