5月30日『書いてないこと』
二階の郷土資料コーナーで、三角の耳をした姉弟と書架の間を歩いている。
二人の祖母は炭飴を四十年作り続けた菓子職人だったという。
炭飴――灰色の砂糖衣に覆われ、噛むと蜜が滲む屋台の飴菓子。レシピは母の元にもあるが、同じに作っても味が違う。祖母が図書館へ寄贈した冊子に何か書いてあるかもしれない――それで姉弟は来館した。
「寄贈台帳にお名前がございますね。この棚の上段です」
古い冊子。表紙に祖母の名前。
「あ、おばあちゃんの字だ」
姉の耳がぴたりと止まる。レシピを開き、母の覚書と見比べていく。材料、手順、温度、時間。
「全部同じじゃん」と弟。
「だから困ってるんでしょ」
弟の耳がわずかに傾いだ。
「……でもさ、味は絶対違うんだよ。舌の奥のやつ。じゃりって溶けて、あとから甘くなる、あの感じ」
「そんなの、レシピに書いてないよ」
レシピの末尾に走り書きがあった。『手でじっくり冷ますこと』。
これだけが母の覚書にはない一行だった。
「これだけ? 冷まし方って、それでそんなに変わる?」
「わかんない。でも……これしか違わない」
◇
三人が首を傾げているところへ、常連の父子が二階に上がってきた。父親がテーブルの冊子に目を留めた。
「あ、覗いてもよろしいです?」
手順を追い、温度の指定を読む。料理人の目だった。
「……宮廷で働いていた頃に、よく似た菓子がありました。たしか――」
白砂糖を銅鍋で煮詰め、氷室で一気に冷ます『銀糖』と呼ばれる菓子だ。道具も材料も違うのに、手順の骨格がほとんど同じだという。
「じゃあ、おばあちゃんの飴って……宮廷のお菓子の真似ってこと?」
弟の耳が後ろに倒れた。
「屋台の飴が宮廷の真似なわけないじゃん」
「でも手順が同じだって」
姉が冊子を閉じかけた。
父親が静かに首を振った。
「いえ待ってください。まだわかりません」
父親がさらにページをめくり、しばらくして手が止まった。
「おや……このページ。よく見ると、字が違いませんか?」
炭飴のレシピは祖母の字だ。丸みのある筆跡。しかしその前のページ、菓子の基本製法は違う字で書かれている。角張った古い字。墨の色も紙の劣化も違う。姉がページを見つめている。
「そういえば、お母さんが言ってた。この本は、おばあちゃんの家にずっと昔からあったものだって。もっと前の人が持ってたって」
「もっと前って、どのくらい前?」と弟。
「わかんない。お母さんも知らないって」
父親が少し目を見開いた。
「……どうやらこの字の方がずっと古いですね。おばあさんのレシピより、もっと古い記録のようです」
父親が古い字のページを声に出して読んでいく。
「粗糖を煮詰め、手にて触れながら冷ますを常とす。手の冷たき者が成すとき、砂糖衣ことに美しく仕上がる」
さらに読み進める。
「――王宮に献上せし折は白砂糖に改め、澄んだ仕上げを良しとする。力無きものにも仕上げ易きよう、氷室にて冷ますに至る――」
間があった。
「……なるほど。こちらが先だ。この方の故郷の伝承にある菓子。これが宮廷に入って形を変えた。氷室に置き換えたわけだ」
「おばあちゃんのが先ってこと?」と弟が身を乗り出した。
「おそらく、この字を書いた方の故郷が発祥のお菓子のようですね」
父親がふと付け加えた。
「そういえば、ひとつ思い出したことがあります。昔の宮廷には、手で捏ねて冷ます工程があったそうです。冷たい手を持つ者のほうが、結晶が細かく揃うと重用されたようで、わざわざ北方から招致したという話もあります」
弟が何気なく言った。
「姉ちゃんの手、冷たいもんね」
姉は押し黙っていた。
◇
貸出の手続きをしている間、弟がぽつりと言った。
「おばあちゃんの屋台、飴をこねるのが遅いって、いつもお客さん文句言ってた」
「遅いんじゃないよ。……一個ずつ手で丁寧にこねてたんだ」
姉の手がカウンターの上で止まった。
「……わたし、おばあちゃんに言われたことがある。『あんたはあたしと同じだよ』って」
弟が顔を上げた。
「意味わかんなかったんだ。……今日まではね」
冊子を手渡す。姉の指先が触れた。五月の午後なのに、ひんやりとした手だった。
「おばあちゃんの飴、今度持ってきます。わたしならきっと、できると思うんです」
姉弟が頭を下げて出ていった。その後ろの父子が続き、息子が振り返って、私に小さく手を振った。
本がひとつの菓子を生んだ。でも、本に書いていないこともある。粗糖の素朴な甘さ、四十年の手が覚えた力加減。そして、先祖から受け継いでいた手のことも。
窓を閉める。砂糖の甘い匂いが、指先にかすかに残っていた。




