表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/73

5月29日『いつかの練習』

挿絵(By みてみん)

 五月の終わりの風は、少しだけ甘い。


 窓際の席で本を開いていると、風がページをめくろうとしてくる。あたしの翼がつられてぴくりと動く。まったく、落ち着かない季節だな。


 閉館までもう一時間を切っている。あたしはいつものように、風の都についての本を読んでいた。今日の本には風車の配置図が載ってた。おじいちゃんが五十年前に歩いた道が、ここ描いてある。


 ――いつか、この道を飛ぶんだ。


 毎週、同じ気持ちで同じような本を開く。少しずつ詳しくなってはいくけど、風の都はまだまだ遠い。


           ◇


 借りた本を返しに、カウンターへ行った。


「ありがとうございました!」


 あれからずいぶん経ち、司書さんとはもう顔なじみだ。


「知りたいこと、見つかりましたか」


「まだ途中っ。でも風の都のこと、だいぶ詳しくなったよ。……行ったことないけど」


 司書さんが静かに笑って、次の本を差し出してくれた。あたしが何を読みたいか、もうわかってくれてる。


 ふと、聞いてみた。前々から気になっていたことだ。


「あの窓際の棚の貝殻って、誰が置いてるの?」


「もうすぐ分かりますよ」


 司書さんはそれだけ言って、にこりと笑った。もうすぐって何。すごく気になる。


 席に戻った。けど、本に全然集中できない。つい窓際の棚を見てしまう。貝殻が六つ。青、白、橙、薄桃色。ひとつには小さな花が描いてあった。綺麗に並んでいて、誰かが少しずつ増やしたんだろう。


 誰が? いつから?


 風の都の本なのに、あたしの目は棚にばかり泳いだ。


           ◇


 かちゃり。


 金属の足音がした。


 顔を上げると、入口から小柄な人影が入ってきた。全身を覆う金属の装備。丸い窓がついた頭部。窓の奥で水が揺れている。脇腹のあたりに、ぎこちない花の絵が描いてある。


 かちゃり、かちゃり。


 足音がカウンターへ向かう。司書さんが慣れた手つきで出迎える。


 翼の羽毛がぴくりと逆立った。あ、きっとこの人だ。『もうすぐ』の人だ。


 その人が本を返却した。風景画集。水滴ひとつない、丁寧な状態。


 懐に金属の手袋が入っていく。


 ――貝殻だ。きっとあの貝殻が出てくるんだ。


 でも、違った。出てきたのは貝殻じゃなかった。


 一枚の紙。四つに折られた防水紙を、金属の指が丁寧に広げた。


 絵だった。


 でこぼこでぎこちない線。色は少なくて、青と灰色と、ほんの少しの橙。そこに描かれていたのは、どうやらこの図書館の中のようだった。


 窓際の棚。小さく並んだ貝殻。壁際の書架。カウンターの前に立つ人影。


 司書さんの手が、ほんの一瞬だけ止まった。それから静かに絵を受け取った。紙は少し湿っていた。


           ◇


 司書さんが棚から一冊を取り出して差し出した。いつもの、という感じで。


 だが、あの人は首を横に振った。


 え。断るの?


 丸窓の奥の目が、書架の向こうをじっと見てる。あたしも視線を追ったけど、遠くて何の棚かまではわからない。


 かちゃり、かちゃり。


 書架のほうへゆっくりと歩き出し、しばらくして端の方で立ち止まった。


 上を向いている。棚の上段。金属の手袋が伸びたけど、背表紙に指先がぎりぎり届かない。もう一度。……やっぱり届かない。あの人が何を見ているかはわかる。少し上の、あの一冊。


 あたしの体は自然に動いていた。考えるより前に、気づいたら歩いていた。


 あの人の隣に立って棚を見上げる。雨の匂いがかすかにした。


 翼を軽く広げて、ふわり。足が床から離れるくらいの、ほんの小さな浮遊。指先が背表紙に触れ、一冊をするりと引き出した。とん、と着地して、羽毛に含んだ空気がふわりと抜けた。


 手の中の本。表紙に色とりどりの筆遣いの見本が並んでいる。


 ……これは風景画集じゃない。水彩画の技法書だ。さっきは風景画集を返してた。けど、次に欲しいのは、この描き方の本なんだ。


「これ?」


 あの人が振り向いた。丸窓の奥で、瞼のない大きな目があたしを見ていた。


 ゆっくりと、目が細まる。言葉はなかったけど、あの目。たぶん――笑ってる。


           ◇


 閉館の時間。


 かちゃり、かちゃり。


 両腕で本を抱えたあの人が、扉に向かいかけて一度だけ振り返った。カウンターの司書さんを見て、そしてこっちも軽く見やってから、小さく頭を下げた。


 金属の足音が遠ざかっていく。


 図書館を出ると、五月の夕方の風が吹いていた。朝とはちょっと違う、夜の匂いが少し混じった風。


 ――まだ途中だ。あたしも、あの人も。


 でも風の都の風車の姿が、前よりも少しだけはっきり思い浮かべられる気がした。

【タルシ族】

挿絵(By みてみん)

 翼を持ち空を翔ける種族。腕の代わりに翼と嘴で暮らしを営む。羽の色による厳格な階級制度があり、純白は支配層、色羽は市民層、黒羽は被差別層に置かれる。空の自由と地の序列が同居する種族である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ