5月29日『いつかの練習』
五月の終わりの風は、少しだけ甘い。
窓際の席で本を開いていると、風がページをめくろうとしてくる。あたしの翼がつられてぴくりと動く。まったく、落ち着かない季節だな。
閉館までもう一時間を切っている。あたしはいつものように、風の都についての本を読んでいた。今日の本には風車の配置図が載ってた。おじいちゃんが五十年前に歩いた道が、ここ描いてある。
――いつか、この道を飛ぶんだ。
毎週、同じ気持ちで同じような本を開く。少しずつ詳しくなってはいくけど、風の都はまだまだ遠い。
◇
借りた本を返しに、カウンターへ行った。
「ありがとうございました!」
あれからずいぶん経ち、司書さんとはもう顔なじみだ。
「知りたいこと、見つかりましたか」
「まだ途中っ。でも風の都のこと、だいぶ詳しくなったよ。……行ったことないけど」
司書さんが静かに笑って、次の本を差し出してくれた。あたしが何を読みたいか、もうわかってくれてる。
ふと、聞いてみた。前々から気になっていたことだ。
「あの窓際の棚の貝殻って、誰が置いてるの?」
「もうすぐ分かりますよ」
司書さんはそれだけ言って、にこりと笑った。もうすぐって何。すごく気になる。
席に戻った。けど、本に全然集中できない。つい窓際の棚を見てしまう。貝殻が六つ。青、白、橙、薄桃色。ひとつには小さな花が描いてあった。綺麗に並んでいて、誰かが少しずつ増やしたんだろう。
誰が? いつから?
風の都の本なのに、あたしの目は棚にばかり泳いだ。
◇
かちゃり。
金属の足音がした。
顔を上げると、入口から小柄な人影が入ってきた。全身を覆う金属の装備。丸い窓がついた頭部。窓の奥で水が揺れている。脇腹のあたりに、ぎこちない花の絵が描いてある。
かちゃり、かちゃり。
足音がカウンターへ向かう。司書さんが慣れた手つきで出迎える。
翼の羽毛がぴくりと逆立った。あ、きっとこの人だ。『もうすぐ』の人だ。
その人が本を返却した。風景画集。水滴ひとつない、丁寧な状態。
懐に金属の手袋が入っていく。
――貝殻だ。きっとあの貝殻が出てくるんだ。
でも、違った。出てきたのは貝殻じゃなかった。
一枚の紙。四つに折られた防水紙を、金属の指が丁寧に広げた。
絵だった。
でこぼこでぎこちない線。色は少なくて、青と灰色と、ほんの少しの橙。そこに描かれていたのは、どうやらこの図書館の中のようだった。
窓際の棚。小さく並んだ貝殻。壁際の書架。カウンターの前に立つ人影。
司書さんの手が、ほんの一瞬だけ止まった。それから静かに絵を受け取った。紙は少し湿っていた。
◇
司書さんが棚から一冊を取り出して差し出した。いつもの、という感じで。
だが、あの人は首を横に振った。
え。断るの?
丸窓の奥の目が、書架の向こうをじっと見てる。あたしも視線を追ったけど、遠くて何の棚かまではわからない。
かちゃり、かちゃり。
書架のほうへゆっくりと歩き出し、しばらくして端の方で立ち止まった。
上を向いている。棚の上段。金属の手袋が伸びたけど、背表紙に指先がぎりぎり届かない。もう一度。……やっぱり届かない。あの人が何を見ているかはわかる。少し上の、あの一冊。
あたしの体は自然に動いていた。考えるより前に、気づいたら歩いていた。
あの人の隣に立って棚を見上げる。雨の匂いがかすかにした。
翼を軽く広げて、ふわり。足が床から離れるくらいの、ほんの小さな浮遊。指先が背表紙に触れ、一冊をするりと引き出した。とん、と着地して、羽毛に含んだ空気がふわりと抜けた。
手の中の本。表紙に色とりどりの筆遣いの見本が並んでいる。
……これは風景画集じゃない。水彩画の技法書だ。さっきは風景画集を返してた。けど、次に欲しいのは、この描き方の本なんだ。
「これ?」
あの人が振り向いた。丸窓の奥で、瞼のない大きな目があたしを見ていた。
ゆっくりと、目が細まる。言葉はなかったけど、あの目。たぶん――笑ってる。
◇
閉館の時間。
かちゃり、かちゃり。
両腕で本を抱えたあの人が、扉に向かいかけて一度だけ振り返った。カウンターの司書さんを見て、そしてこっちも軽く見やってから、小さく頭を下げた。
金属の足音が遠ざかっていく。
図書館を出ると、五月の夕方の風が吹いていた。朝とはちょっと違う、夜の匂いが少し混じった風。
――まだ途中だ。あたしも、あの人も。
でも風の都の風車の姿が、前よりも少しだけはっきり思い浮かべられる気がした。




