5月28日『真ん中の声』
二階の閲覧席で、利用者の二人組が商工新報の切り抜きを広げているのが見えた。小声のつもりなのだろうが、図書館の空気は音をよく通す。
「――ギルドの言い分もわかるけどねえ」
「でもこう書かれたらなあ――」
私は書架の整理を続けながら、閲覧室を見渡した。
窓際の席に、イルマさんが座っていた。いつもの参考資料室ではなく、一般閲覧室だ。机の上には何もない。紙片も手帳も。手だけがある。
あの二人は、切り抜きの筆者がすぐ隣にいることを知らない。書いた人間というのは、読まれる場所ではひどく小さくなるものだ。
◇
書架を一巡して再び戻ると、イルマさんが顔を上げた。
「……記事が出ました」
「ええ。拝読しました」
ギルドと商会の対立を扱った特集記事。どちらの声も丁寧に拾い、どちらが正しいとも書かない構成だった。誠実な仕事だと思った。
イルマさんは窓の外を見ている。鍛冶工房から槌音が響いていた。
「商会側に歓迎されましたよ。『公正な記者でさえ両論あると認めた』と。私の記事が、向こうの主張を補強する材料になったんです」
指先が、机の上でかすかに動いた。
「ギルドの大親方には、お礼を言いに伺いました。一言だけ返され――『あんたは書いた。俺は読んだ。それだけだ』。怒りではありませんでした。ただ、それきり――」
私は何か言おうとした。けれど、その前に――図書館の扉が開いた。
◇
軽い足音。深緑の上着に八角形の銀バッジ。
指先が太腿を叩いている。とん、とん、とん。じっとしていられない気質だ。
「すみませーん、技術論文の閲覧予約してたミリアです。――あれ?」
ミリアさんはイルマさんを見つけて、ぱっと顔を明るくした。
「イルマさん! お久しぶりです」
イルマさんの肩が、わずかに強張った。ミリアさんは構わず椅子を引いて座る。
「記事、読みましたよ。うちの部署でも回覧されてました。商会側もギルド側の声も、ちゃんと拾ってくれてるなって思いました」
「……ありがとうございます」
「でもちょっと不思議だったのが――」
ミリアさんは首を傾げた。悪意のない、純粋な疑問の顔だった。
「私の声が、入ってなかったですよね。取材で、けっこう話したと思うんですけど。……なにかマズいことありました?」
イルマさんが目を伏せる。
「あなたの話は……どちらの側にも分類できなかったもので」
「……分類しなきゃいけなかったんです?」
その一言が、閲覧室の空気を変えた。
◇
私はカウンターに下がった。ミリアさんの論文を用意する業務がある。
カウンター越しに、声の断片が聞こえてくる。
「私、元は工房街で育ったんです。鍛冶の音を子守唄にして寝てた子です」
ミリアさんの声は明るい。けれど、言葉は軽くなかった。
「今は商会で新しい設備を工場に入れる仕事をしてます。ほら、親方たちが嫌がってるやつですよ。……そのあいだを取り持つのがなかなか大変で。うまくいかなくて」
少し間があって、ミリアさんの声が静かになった。
「親方たちが何を怖がってるか、私にはわかるんですよ。変わることじゃなくて、自分が要らなくなること。それが怖い。――でもそれを、商会の人間であるわたしが面と向かって言ったら、余計に話がこじれてしまうでしょう?」
イルマさんの声が、静かに返った。
「だから黙っている?」
「……波風を立てたくないわけじゃないんです。ただ、どっちにも正しい言い分があって、どっちも壊したくないから言えない。そういう人、この街にはたくさんいると思います。私も含めて……ですけどね」
沈黙。窓の外で、槌音が響いている。壁一枚向こうの工房から。
ミリアさんの指が動き出す。とん、とん。
「意見が一緒じゃないから、お互いに存在する意味があるんだと思うんです。ギルドの頑固さも、商会の効率も、私みたいに間で右往左往してるのも。大変ですけど、全部あって初めて、この街なんだと思う」
長い沈黙のあと、イルマさんの声が聞こえた。前よりもずっと静かだった。
「私は――左か右か。どちらに並べるかしか考えていなかったのかも。並べるだけの存在だ、と」
イルマさんは続けた。
「記者はただの脇役だと思っていました。声を並べるだけ。舞台の端にいる存在だ、とね。でも――脇役がいなかったら、主役は一体誰に話すんだろう。聞く人がいなければ、声は声にならない……」
◇
ミリアさんが技術論文を受け取り、立ち上がった。
「また来ます。次に何か書くときは、是非また声かけてください。『真ん中の声』、いくらでも出しますから」
指先で扉の枠をとんとんと叩いて出ていった。
閲覧室が静かになる。切り抜きの二人組はいつの間にか帰っていた。
「お茶をお入れしましょうか」
「……ありがとうございます」
カウンターでお茶を淹れていると、背中にイルマさんの声が届いた。
「次の記事を書いてみます。今度は――分けるのをやめます。あの人のような声を、真ん中に置いてみたら何かが見えるかもしれない」
イルマさんは両手でカップを受け取り、小さく息を吐いた。少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
◇
閉館後。
窓際の席を片づけると、走り書きのメモが一枚残されていた。
――『脇役は、舞台を降りてはいけない』。




