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5月27日『硝子の向こう』

挿絵(By みてみん)

 二階閲覧室の窓に、ひびが入っているのを見つけた。


 一本の、まっすぐな線。昨日の風が運んできた小石だろうか。外縁から斜めに走って、午後の光が通る位置で止まっている。光がそこを通るたびに虹のように滲んで、それはそれできれいだったけれど、放っておくわけにはいかない。硝子工ギルドに修理を依頼した。


 水曜日の午前、玄関の階段を上がってくる軽い足音が聞こえて、私はペンを置いた。


「おーい、窓! ナディです!」


 聞き覚えのある声。硝子工ギルドのナディさん。年に何度か窓の整備に来てくれる人で、私がここで働き始めてから、もう五年の付き合いになる。


「久しぶり。また? この建物ほんと風に弱いんだよね」


 道具箱を肩に提げた姿は前と変わらない。鱗の並んだ手。金色の瞳。笑うと、瞳孔が横に開く。


「お久しぶりです、ナディさん。今回はひびが一本」


「見せて見せて。行こう」


 カウンターを通り抜けるとき、ナディさんの視線がふと止まった。作業台の端に置いてある骨ベラ。昨日の忘れ物だ。


「あ」と小さく声を漏らして、すぐ前を向いた。


「――で、二階のどの窓?」


           ◇


 ナディさんはひびの前にしゃがみ込んで、指先を硝子に沿わせた。目を閉じる。鱗に覆われた指が、ゆっくりとひびをたどっていく。


「……外から。斜め上、小さくて硬いもの。石だね。温度じゃない、衝撃の一本割れか」


「触っただけで」


「硝子って、割れ方に力の記憶が残るの。――ここ、触ってみて」


 指先をひびに導かれた。五年の付き合いだからか、手を取ることに迷いがない。


「……この筋に沿って、微かに段差がある」


 わからない、と首を振った。


「だよね」


 ナディさんが自分の指先をひらひらさせた。鱗が鈍く光る。


「この指が向いてるみたいなの、こういうの。冷たいでしょ、私の手。硝子も冷たいものだから、お互い相性いいのかも」


 枠から古い硝子を外した。途端に、外の世界が流れ込んだ。鍛冶の槌音。子どもの声。五月の風が本のページをめくって、閲覧席の常連客が顔を上げた。インクの匂いのなかに金属と新緑が混ざった。


 ナディさんが窓枠の外に身を乗り出して、大きく息を吸った。


「……硝子一枚でこんなに違うんだよ」


           ◇


 新しい硝子を準備するあいだ、ナディさんはずっと喋っていた。


「いい硝子って、気づかれないのよ。光を通して、風を止めて、雨を防いで。でも誰も硝子は見ない。壊れて初めて『あったんだ』って言われる」


「……それは、少しわかります」


「前にウチの師匠がさ、言ってたんだけど――えっと、なんだっけ。ああそうそう、『いい硝子は空気だ』って。かっこいいでしょ。けど、私がマネすると、『いい硝子は……えーと……透明で……ちゃんとしてて……なんか、空気みたいな……やつ!』ってなって。台無し!」


 自分で笑っている。釣られて、こちらも笑ってしまった。「師匠が言うんだ」――その言い回しを、私は別の声でも聞いたことがある。


「あんたもでしょ。本を渡して、相手が知識を得て帰っていく。うまくいったときほど、司書のことなんかみんな忘れてる」


 布で硝子の面を拭き始めた。


「見えない仕事同盟だね、私たち」


 拭きながら、ふと軽い調子で続けた。


「でもあんた、前よりいい顔してるよ。五年前に初めて会ったとき、もっと怖かった」


「怖い、ですか」


「うん。きれいだけど、触ったら切れそうな。今はもうちょっと明るい。光を通すようになったって感じ」


 ナディさんが鼻の頭を掻いた。


「硝子みたいよね」


           ◇


 新しい硝子を窓枠に合わせた。最後の一辺に、わずかな隙間がある。ナディさんが硝子の縁に指を添えて、目を閉じた。


「……ちょっとだけ、ここが厚いな」


 硝子の縁が、微かに動いて馴染んでいくのが見える。硝子が嵌まった瞬間、槌音が遠くなった。風が止まる。ページの動きが止まる。図書館が戻ってきた。


 ナディさんが硝子を布で拭いて、一歩下がった。


「よし。もう見えないでしょ。これが硝子の仕事。見えるのに触れられない距離を作ること」


 そう言って窓に手を置いたまま、少し遠い目をした。


「硝子屋はね、窓を直しながらいろんな場所の音を聞くんだ。あんたのとこに来るたびに思うけど、この図書館はいい音がするよ。長く通ってても、一番変わらないのはそこだね」


           ◇


 一階に降りて、ナディさんが道具箱を閉じた。


「ありがとうございました。いつも助かります」


「いーよいーよ、いつものことでしょ」


 カウンターの前を通るとき、ナディさんの視線がもう一度、骨ベラに向かった。今度は何も言わなかった。瞳孔が細くなった。


「……あ、そうだ」


 声が変わった。五年分の軽口を叩いてきた人が、一瞬だけ、改まった。


「……弟が、お世話になっています」


「こちらこそ」


 ナディさんが目を丸くした。そしてすぐに笑った。いつもの笑い方だった。


「じゃ! またね!」


 軽い足音が、階段を降りていった。



    ◇



 閉館後に二階へ上がった。新しい硝子は完璧に透明で、嵌め替えたことなど誰も気づかないだろう。西日が差すと、表面に指紋がひとつ浮かんだ。


 友情は時間が実らせる果実だ、と書いてあった本がある。ただひとつの丁寧語。あれが果実なのだとしたら、ずいぶん静かに熟したものだと思う。


 窓の向こうで、鍛冶の煙が夕空にたなびいている。硝子越しに見る煙は、どこか柔らかかった。

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