表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/74

5月26日『速い花と遅い花』

挿絵(By みてみん)

 窓から入る風は、もう初夏の匂いがする。


 まだ静かな時間。杖の音が聞こえた。ゆっくり、ゆっくり。


 白い巻き毛に覆われた小柄な老婦人が、玄関口に立っていた。毛の奥から厚い丸眼鏡が覗き、垂れた長い耳がかろうじて左右に見える。額の左右に小さな角が、朝日を受けてほのかに光っている。


「返却に参りました。少しばかり遅くなってしまいまして」


 貸出票に目を落とした。日付を読み、もう一度読み返した。


 百二十年前。


「……少しばかり、ですか」


「ええ。つい先日のことだと思っておりましたのに」


 赤みがかった瞳がゆっくりと館内を見回す。


「あら、ずいぶんと建物が綺麗になりましたのね。以前の石造りも味わいがございましたけれど」


 前の建物は、八十年前に改修されている。


 差し出された本を受け取る。『ツヴェル大陸 染料植物図譜』。革の表紙は丁寧に手入れされ、背表紙の金文字もくっきりと残っていた。


「とても大切にしてくださったのですね」


「庭で使っておりましたので、植物たちが守ってくれたのでしょう」


 冗談なのか本気なのか、その穏やかな声からは判断がつかなかった。


           ◇


 返却の手続きを進めていると――扉が勢いよく開いた。


 私の腰ほどの小柄な姿が飛び込んでくる。淡い黄緑色の外皮に、背中で畳まれた薄い翅が四枚。大きな複眼が忙しなく動いている。外套の裾に鉄粉がついていた。職人街を全力で駆け抜けてきたらしい。


 四本の腕がそれぞれ別の動きをしている。鞄を押さえ、帽子を取り、メモを広げ、額の汗を拭く。同時に。


「すみません! 植物の染料の配合が載ってる本ってありませんか? 図版つきので。今日中に調べたいんです、お願いします!」


 息継ぎがない。こちらが「少々お待ちくだ――」と言い終わる前に、もう棚の方を見ている。


「水曜の夜学で、織物工房の親方に言われたんです。染め物やるなら植物のこともっと調べろって。それで、えーと、"媒染定着"……いや、"定着媒染"? とにかく色を留める方法が知りたいんです」


 背後で、くすりと笑い声がした。


「まあ、お元気なこと」


 小柄な来館者が振り返り、老婦人に気づいて慌てて頭を下げた。触角が申し訳なさそうにハの字に垂れる。


「あっ、すみません。先にいらしたのに」


「いいえ、いいえ。急いでいらっしゃるのでしょう。お先にどうぞ。私には、時間だけはたくさんありますので」


           ◇


 要件を聞いた。三色の植物染料を自分で配合しなさいという課題。二色は知っている。残り一色、青みがかった紫がどうしても出せない、という話だ。


 私はカウンターに目をやった。たった今返却されたばかりの図鑑が、まだそこにある。


「こちらの本に、載っているかもしれません」


 閲覧机に置いた図鑑。四本の腕のうち二本でページを押さえ、一本でめくり、一本でメモに走り書きする。複眼の色が、興奮とともに金色へ近づいていく。


 ページの余白に、細い字で手書きの注釈があった。


 ――根は秋に掘る。春に掘ると色が薄い。

 ――三日干してから砕くこと。急ぐと濁る。


「これ、誰が書いたんです?」


「ああ」


 老婦人が眼鏡の奥で目を細めた。


「わたくしですね。いつの頃やら、すっかり忘れておりました」


「あった! ムラサキツユクサの根――これだ!」


 背中の翅がぶるぶると震えた。


 しかし、すぐに触角がハの字に戻る。


「配合の割合が……どこにも書いてない」


 沈黙を破ったのは、老婦人だった。


「……ムラサキツユクサの根でしたら、乾燥させたものを三つかみほど、明礬(ミョウバン)と合わせるのですよ。煮出す時間は砂時計で半回し。強火は禁物」


 触角がぴんと立った。


「……お詳しいんですか?」


「昔、染料の研究をしておりまして。百五十年ほど前のことですけれど」


「ひ、ひゃく、ごじゅうねん」


「明礬は媒染剤ですからね。色を布に定着させるのです」


「あ――媒染! それです、夜学で聞いた言葉。"媒染定着"じゃなくて、"媒染"だけでよかったんだ」


           ◇


「あの花は気難しいのです」


 老婦人が嬉しそうに語り始める。


「日当たりが良すぎても駄目、悪すぎても駄目。わたくしの庭で機嫌よく咲いてくれるようになるまで、六十年かかりました」


「六十年!?」


「ええ。植物というのは、気長に付き合うものですから」


「わたし、六十年も待てません……」


「あら。でもあなたは、今日のうちに染めるのでしょう? わたくしには、それこそ無理ですよ。明日のことを今日やるなんて、目が回ります」


 二人が一緒に笑った。老婦人はゆっくりと、来館者は弾むように。


「育てているつもりでしたけれど、いつの間にか、花のほうがわたくしを見守ってくれるようになりましてね。朝、庭に出ますと、あちらこちらから声をかけてくれるの。今日も来たのね、と」


「花が、声を?」


「ええ。水をやるだけで十分なのです。あとは花が勝手に、必要な人のところへ香りを届けてくれます」


 図版に指を触れた。


「この子はまだ元気にしていますよ。わたくしの庭で」


「――お庭に、ムラサキツユクサ、本当にあるんですか」


「ええ、ええ。今がちょうど盛りです」


「見せてもらえませんか! あっ、もしよければですけど。実物を見たら、もっとわかることがあると思うんです」


 赤い瞳が、毛の奥で嬉しそうに細くなった。


「まあ、庭に来てくださるの。嬉しいわ。最近は植物以外の話し相手がおりませんでしたから」


           ◇


 四本の腕が全速で動いた。メモを鞄に詰め、帽子を被り、外套のボタンを留め、図鑑を――閉じかけて、手を止める。


「……この本、借りていいですか?」


「もちろんです」


 貸出票に名前を書く手は、早いが丁寧だった。鞄を背負うとき、紐が背中の翅に引っかかる。小さく笑いながら紐を外す。


「翅があると荷物がずれないんですよ。便利でしょ?」


 老婦人が微笑みながら杖を手に立ち上がる。


「では、参りましょうか」


「お庭は遠いんですか?」


「歩いて半刻ほどです。あなたの足なら、もっと早いかもしれませんが」


 ほんの少し、間がある。


「いえ――今日は、ゆっくり歩きます」


 扉が閉まった。


 杖の音と、軽い足音。速度は、同じだった。


           ◇


 百二十年ぶりに返却された図鑑が、今日また貸し出された。あの本にとって、棚の上にいたのはほんの数分間だったことになる。……本にも、忙しい日というものがあるらしい。


 窓の外では、黄色い花と紫の花が、同じ風に揺れていた。

【セボー族】

挿絵(By みてみん)

 蜂、甲虫、蛾など多様な姿を持つ虫型の種族。幼年期はイモムシ状で、成長とともに劇的に姿を変える。翼は退化し飛べない。寿命はわずか二十年。短い生を駆け抜けるがゆえに、一日の密度が他の種族とは根本から異なる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ