5月26日『速い花と遅い花』
窓から入る風は、もう初夏の匂いがする。
まだ静かな時間。杖の音が聞こえた。ゆっくり、ゆっくり。
白い巻き毛に覆われた小柄な老婦人が、玄関口に立っていた。毛の奥から厚い丸眼鏡が覗き、垂れた長い耳がかろうじて左右に見える。額の左右に小さな角が、朝日を受けてほのかに光っている。
「返却に参りました。少しばかり遅くなってしまいまして」
貸出票に目を落とした。日付を読み、もう一度読み返した。
百二十年前。
「……少しばかり、ですか」
「ええ。つい先日のことだと思っておりましたのに」
赤みがかった瞳がゆっくりと館内を見回す。
「あら、ずいぶんと建物が綺麗になりましたのね。以前の石造りも味わいがございましたけれど」
前の建物は、八十年前に改修されている。
差し出された本を受け取る。『ツヴェル大陸 染料植物図譜』。革の表紙は丁寧に手入れされ、背表紙の金文字もくっきりと残っていた。
「とても大切にしてくださったのですね」
「庭で使っておりましたので、植物たちが守ってくれたのでしょう」
冗談なのか本気なのか、その穏やかな声からは判断がつかなかった。
◇
返却の手続きを進めていると――扉が勢いよく開いた。
私の腰ほどの小柄な姿が飛び込んでくる。淡い黄緑色の外皮に、背中で畳まれた薄い翅が四枚。大きな複眼が忙しなく動いている。外套の裾に鉄粉がついていた。職人街を全力で駆け抜けてきたらしい。
四本の腕がそれぞれ別の動きをしている。鞄を押さえ、帽子を取り、メモを広げ、額の汗を拭く。同時に。
「すみません! 植物の染料の配合が載ってる本ってありませんか? 図版つきので。今日中に調べたいんです、お願いします!」
息継ぎがない。こちらが「少々お待ちくだ――」と言い終わる前に、もう棚の方を見ている。
「水曜の夜学で、織物工房の親方に言われたんです。染め物やるなら植物のこともっと調べろって。それで、えーと、"媒染定着"……いや、"定着媒染"? とにかく色を留める方法が知りたいんです」
背後で、くすりと笑い声がした。
「まあ、お元気なこと」
小柄な来館者が振り返り、老婦人に気づいて慌てて頭を下げた。触角が申し訳なさそうにハの字に垂れる。
「あっ、すみません。先にいらしたのに」
「いいえ、いいえ。急いでいらっしゃるのでしょう。お先にどうぞ。私には、時間だけはたくさんありますので」
◇
要件を聞いた。三色の植物染料を自分で配合しなさいという課題。二色は知っている。残り一色、青みがかった紫がどうしても出せない、という話だ。
私はカウンターに目をやった。たった今返却されたばかりの図鑑が、まだそこにある。
「こちらの本に、載っているかもしれません」
閲覧机に置いた図鑑。四本の腕のうち二本でページを押さえ、一本でめくり、一本でメモに走り書きする。複眼の色が、興奮とともに金色へ近づいていく。
ページの余白に、細い字で手書きの注釈があった。
――根は秋に掘る。春に掘ると色が薄い。
――三日干してから砕くこと。急ぐと濁る。
「これ、誰が書いたんです?」
「ああ」
老婦人が眼鏡の奥で目を細めた。
「わたくしですね。いつの頃やら、すっかり忘れておりました」
「あった! ムラサキツユクサの根――これだ!」
背中の翅がぶるぶると震えた。
しかし、すぐに触角がハの字に戻る。
「配合の割合が……どこにも書いてない」
沈黙を破ったのは、老婦人だった。
「……ムラサキツユクサの根でしたら、乾燥させたものを三つかみほど、明礬と合わせるのですよ。煮出す時間は砂時計で半回し。強火は禁物」
触角がぴんと立った。
「……お詳しいんですか?」
「昔、染料の研究をしておりまして。百五十年ほど前のことですけれど」
「ひ、ひゃく、ごじゅうねん」
「明礬は媒染剤ですからね。色を布に定着させるのです」
「あ――媒染! それです、夜学で聞いた言葉。"媒染定着"じゃなくて、"媒染"だけでよかったんだ」
◇
「あの花は気難しいのです」
老婦人が嬉しそうに語り始める。
「日当たりが良すぎても駄目、悪すぎても駄目。わたくしの庭で機嫌よく咲いてくれるようになるまで、六十年かかりました」
「六十年!?」
「ええ。植物というのは、気長に付き合うものですから」
「わたし、六十年も待てません……」
「あら。でもあなたは、今日のうちに染めるのでしょう? わたくしには、それこそ無理ですよ。明日のことを今日やるなんて、目が回ります」
二人が一緒に笑った。老婦人はゆっくりと、来館者は弾むように。
「育てているつもりでしたけれど、いつの間にか、花のほうがわたくしを見守ってくれるようになりましてね。朝、庭に出ますと、あちらこちらから声をかけてくれるの。今日も来たのね、と」
「花が、声を?」
「ええ。水をやるだけで十分なのです。あとは花が勝手に、必要な人のところへ香りを届けてくれます」
図版に指を触れた。
「この子はまだ元気にしていますよ。わたくしの庭で」
「――お庭に、ムラサキツユクサ、本当にあるんですか」
「ええ、ええ。今がちょうど盛りです」
「見せてもらえませんか! あっ、もしよければですけど。実物を見たら、もっとわかることがあると思うんです」
赤い瞳が、毛の奥で嬉しそうに細くなった。
「まあ、庭に来てくださるの。嬉しいわ。最近は植物以外の話し相手がおりませんでしたから」
◇
四本の腕が全速で動いた。メモを鞄に詰め、帽子を被り、外套のボタンを留め、図鑑を――閉じかけて、手を止める。
「……この本、借りていいですか?」
「もちろんです」
貸出票に名前を書く手は、早いが丁寧だった。鞄を背負うとき、紐が背中の翅に引っかかる。小さく笑いながら紐を外す。
「翅があると荷物がずれないんですよ。便利でしょ?」
老婦人が微笑みながら杖を手に立ち上がる。
「では、参りましょうか」
「お庭は遠いんですか?」
「歩いて半刻ほどです。あなたの足なら、もっと早いかもしれませんが」
ほんの少し、間がある。
「いえ――今日は、ゆっくり歩きます」
扉が閉まった。
杖の音と、軽い足音。速度は、同じだった。
◇
百二十年ぶりに返却された図鑑が、今日また貸し出された。あの本にとって、棚の上にいたのはほんの数分間だったことになる。……本にも、忙しい日というものがあるらしい。
窓の外では、黄色い花と紫の花が、同じ風に揺れていた。




