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5月25日『日向の席』

挿絵(By みてみん)

 扉が開いた。大柄な男が立っている。


 灰色の短髪に、頬を刻む深い皺。口元からのぞく牙が、朝の光を受けて白い。男は入口で足を止めたまま、館内を見回していた。どこへ進めばよいのか分からないという顔をしている。


「おはようございまーす」


 その背後から声がした。


「おはようございます、ルッツさん。少し……お静かに」


「あ、すんません」


 煤のついた作業着に、日に焼けた太い首。五週間前、仲間四人で初めて来館したあの若者だ。ルッツが入口の男に気づく。


「あ、オスカルさんじゃねえっすか」


 声が館内に響いた。大柄な二人が入口に並び、後ろの女性が立ち往生している。


「……どうぞ、お入りください。お二人とも、もう少し奥の方へ」


           ◇


「オスカルさん、図書館は初めてなんすか? 俺に任せてくださいっす!」


 ルッツが胸を張った。この子がどこまで把握しているか。少し気にはなった。


「ここが一階です。んで、あのカウンターで貸し借りできます」


「で、横のあの部屋が、司書さんの……えーっと、休憩室」


「執務室です」


「そうそう。仕事する部屋っす。知ってました」


 ……。


「二階が閲覧室で、ここには机が六卓あって――」


「五卓です」


「そうそう。五。五卓っす」


 オスカルは黙ってついて歩いている。ただ、訂正が入るたびにこちらを見るようになっていた。


「三階は技術書です。誰でも自由に――」


「申し出制です」


「え、そうなんすか。……俺、三階行ったことないっす」


 正直だった。


「四階は……なんか、やばい本があるって、仲間のヨルドが――」


 私は咳払いをした。


「……四階の噂は、お控えいただけると助かります」


「すんません」


 オスカルが低い声で言った。


「……お前、本当に詳しいのか?」


「一階と二階は完璧っすよ」


 堂々と言い切るその姿に、オスカルの肩がわずかに揺れる。


「半分も分かりゃ上等だ」


「でしょ。ここでは俺が先輩っすから」


「……威張るな。机の数も間違えてたろう」


           ◇


 二階の窓際に案内した。二人が腰を下ろすと、椅子が盛大に軋む。隣の利用者が何も言わず一つ横にずれた。


「オスカルさんは第三炉の鋳込み職人なんすよ。ずっと夜勤で――」


 オスカルは補足しない。ただ窓の外を一度見た。朝の光が眩しいのかもしれなかった。


「……別に。少し寄ってみただけだ」


「俺も返却だけっす。すぐ帰ります」


 棚から写真帖『フリアの窓から』を取り出した。オスカルがめくろうとするが、めくれなかった。厚い指が紙を二枚まとめに持ち上げてしまう。


「あー、俺もなるんすよ。紙って薄いですよね」


「……鉄のほうが掴みやすい」


「分かる。俺も最初そう思いました」


「お前と一緒にするな。俺は二十二年だぞ」


 少し胸を張ったように見えた。炉の前に立ってきた年月は、この人の勲章なのだろう。


 夜の街路の写真で手が止まった。次のページに、同じ場所の朝の写真。


「……同じ場所なのに、俺の知らねえ顔があるもんだ」


 ずっと夜勤だとルッツが言っていた。この人が知っているのは、夜の第三炉のそばだけなのだ。しばらく二人とも黙っていた。


「……夜のほうがいい面してるぞ。炉の火が窓に映るからな」


 写真帖ではなく窓の外を見ながら、オスカルはそう言った。


           ◇


「道具の本もあるっすよ。鍛冶道具の写真が載ってて」


「……別にいい」


「じゃあ植物のやつが――」


「……道具でいい」


 ルッツの口の端が持ち上がった。


「本が気になる顔してますよ?」


「なってねえ。……お前。返却だけじゃなかったのか」


 ルッツの手元には識字教本の新しい巻がある。


「……ついでっすよ。ついで」


「ふん。お互い様だな」


 オスカルは道具の本を開いた。時おり指先で図版の輪郭をなぞっている。


「今日はなんで図書館に来たんです?」


「……たまたまだ」


「あー。俺も最初そうでした。親方に行ってこいって言われて――」


 オスカルの視線がわずかに逸れた。


「あ、もしかしてオスカルさんも、親方に――」


「言われてない」


「親方言ってましたもん、遅くても何もしねえやつよりマシだって」


「……あの野郎、余計なことばかり」


 口は悪かったが、怒っている声ではなかった。


           ◇


 道具の本を閉じたオスカルが、写真帖をもう一度手に取った。


「……これは借りられるか」


「貸出カードをお作りいたします」


「俺が教えますよ。ここに名前を――」


「知ってる。さっき案内で見てた。……いや、お前の案内じゃねえ。司書殿の訂正のおかげだ」


「……ひどくないすか」


 オスカルがペンを取った。太い指の間に軸が収まって見えなくなる。


「俺も最初ペン折りましたもん。二本連続で」


「……二本か」


 肩の力が抜けたのが分かった。先達がいるだけで人は安心するものらしい。カウンターから太軸のペンを取り出す。


「こちらをお使いください」


「あ、それ。俺も最初それで書きました」


 児童用のペンだ。伝える必要は、今のところなさそうだった。


 ルッツが自分のカードを隣に並べた。


「俺の最初の字っす。……ひどいもんでしょ」


「ふん。……似たようなもんだ」


「仲間っすね」


「仲間かは知らねえが……まあ、同じくらいだな」


           ◇


 貸出の手続きを終えた二人が、扉へ向かった。


「また来てくださいよ。俺が許可します」


「勝手に許可を出すな。司書殿に失礼だろ」


 ルッツが慌ててこちらを見た。私は小さく首を振る。扉が開く。朝の光が差し込んでくる。


「第三炉の話、今度聞かせてくださいよ」


「……また来たらな」


「返却には来てくださいっすよ?」


 低い声で何か返していた。聞き取れない。ルッツの笑い声だけが、通りの向こうへ遠ざかっていった。


 椅子を戻す。二脚とも、座面がわずかに沈んでいた。


 カウンターに貸出カードが二枚。大きくて、少しはみ出した字が並んでいた。

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